「駄目なら野球をやめる」ピアノ調律の資格取得 崖っぷちからプロ入りした名捕手
河合楽器に入社した大石友好氏はピアノ調律の資格を取得
勝負の年に結果を出した。徳島・海南高から神奈川大を経て河合楽器入りした大石友好捕手(元西武、中日)は、社会人4年目の1979年ドラフト会議で西武から3位指名を受けた。当時25歳。都市対抗での活躍などが評価されたが、実は「その年、駄目なら野球をやめるつもりだった」と明かす。ラストチャンスと自分に言い聞かせて取り組んだ成果。プロから声がかからなければ、ピアノ調律の仕事に就くつもりだったという。
神奈川大4年(1975年)の夏頃に大石氏は右肩を痛めたが、その状態は河合楽器に入った後もなかなか戻らなかった。「社会人でも3、4か月は投げられなかった。でも会社がいろいろ治療に行かせてくれたんです。おかげで徐々に良くなっていきました」。練習はハードだったという。「ハンパじゃないほどきつかった。基礎体力作りでね。でも、そこで鍛えられたので、プロの練習がすごく楽に感じられたんですけどね」と笑みを浮かべながら振り返った。
「毎日、40塁打、50塁打ってベースランニングがあった。ファーストへ10本で10塁打、セカンドまで5本で10塁打、サードまで3本で9塁打って、それを真夏に50塁打とかやるんですよ。いろんな体力強化もあった。背筋、腹筋、ウサギ跳び、ランニングも含めて……。すごい練習だった。下半身も強くなって、足も速くなった。社会人で体力がついたと思います」。だが、野球の結果はなかなか出なかった。
「社会人1年目は肩の状態が良くなかったし、2年目、3年目は試合に出たけど、大事なところでは先輩のキャッチャーが出た」。その状況に大石氏は「こんなことをしていたらもう終わっちゃうと思った」という。そこで決めた。「4年目で勝負しようと思って、自分なりに頑張りました。野球に取り組む姿勢も変えた。休みの日も走ったり、スイングしたり、いろいろ考えながら練習をやりました。その年駄目なら仕事に就こうと思っていました」。
河合楽器では午前に仕事、午後は練習が基本的なスケジュール。「1年目の仕事は工場勤めですが、2年目はピアノの調律をやるか、本社の事務をやるか、どっちかを選ぶことになっていました。僕はピアノの調律。2年間、午前中の仕事の代わりに学校に行かせてくれたんです。それで2年目、3年目に資格を取って、4年目は午前中にその仕事をしていました」。その年にプロから声がかからなければ、野球をやめてピアノ調律に専念することも考えていたわけだ。
社会人4年目に補強選手で都市対抗へ…攻守でアピールし西武に3位指名
それこそ必死だった。「4年目は試合にも出られるようになって、都市対抗は予選で負けたんですけど、大昭和製紙に補強されて出場できました」。そこで大石氏は活躍した。「スローイングがよくて盗塁はみんな刺した。それでアピールできたんです」。1979年の第50回都市対抗野球大会(後楽園球場)で、大昭和製紙(富士市)は日本通運(浦和市)との1回戦、延長12回3-3の引き分け、再試合に4-0で勝利した。
新日鉄広畑(姫路市)との2回戦も延長12回5-5の引き分け、再試合となって6-3で勝った。準々決勝は日産自動車(横須賀市)に2-3で敗れたが、大石氏はホームランを放った。「バッティングは大したことはないんですけどね。向こう(大昭和製紙)にもキャッチャーがいたのに使ってもらったんですよ」。再試合が2度続き、プロにアピールする機会が増えたのも大石氏にはプラスになった。
その時の大石氏が捕手としてリードした大昭和製紙のエースは杉本正投手。後に西武で同僚となり、一緒にトレードで中日に移籍することにもなるのだから、縁があったということだろう。「都市対抗後に、大学社会人の全日本候補の合宿が浜松であったんですが、それにも参加できた。候補になること自体がチャンスだと思った」。代表入りはならなかったものの、プロの評価は高まった。1979年のドラフト前には西武が指名予定と伝わっていたそうだ。
「何位になるのかわからなかったけど、3位と聞いて、うれしかったですね。確か練習中に連絡がきたんだったかなぁ」。神奈川大4年の時に右肩を痛めて、悔しい思いをしたこと。河合楽器のハードな練習に耐えて、ここまで頑張ってきたこと。4年目を勝負の年と決めて臨んだこと。そんなすべてが報われた瞬間でもあった。
当時のライオンズは「西武」となって福岡から所沢に移転して1年目のシーズンを終えたばかり。「新しくなったチーム。球場もすごいし、これからのチームに入れてすごくうれしかったです」。気合も入れ直した。年齢的にもプロ1年目から結果を出さなければいけない。大石氏はまた覚悟を決めて、西武に入団した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)