帝京の“名将”前田三夫氏の知られざる過去 公式戦通算0打席…屈辱の大学時代

帝京高の野球部監督を務めた前田三夫氏【写真:荒川祐史】
帝京高の野球部監督を務めた前田三夫氏【写真:荒川祐史】

退任後の独占インタビュー ノックと歩んだ50年【後編】

 2021年の夏まで50年にわたって東京・帝京高の監督を務め、チームを全国屈指の名門に育て上げた前田三夫氏(現在は同校名誉監督)にFull-Countが実施した独占インタビュー。今回は『ノックの真髄』の後編をお届けする。高校球界で“名人芸”と称えられたノックの技術は、屈辱に耐えた大学時代に培われたものだった。

 ある大会期間中、ベンチ裏で前の試合が終わるのを待っていた時に、偶然スタンドから高校野球ファンの声が前田氏の耳に届いた。「後ろの席の人がね『帝京高校はノックがいい。帝京の試合はね、ノックも見ないとだめだよ』。まだ若い頃でしたが、あれはうれしかった」と満面に笑みを浮かべる。

 前田氏のノックは極めてテンポが速く、しかも正確にバットの芯でとらえるため、ボールは常にまっすぐなラインを描くようにして、選手のグラブに収まっていった。「晩年になってからは、選手たちに『ノックはショータイムだ』と言っていました。『帝京のノックを見た相手に、これは勝てないと思わせよう。その段階で勝負ありだ。そこまで持ってこい。俺もそこまで鍛えるから』とね」と振り返る。

 必要があれば、ボールに不規則な回転をかけることも、選手が捕れるか捕れないかギリギリのポイントに打つこともお手の物。真上にキャッチャーフライを打ち上げるのも得意だった。夏の合宿で訪れた長野県の球場では昼食時間中に、ホームベース付近でノックバットを振るい、左翼、右翼のポールにボールを命中させ、選手たちの度肝を抜いたこともある。

 1987年に米国で行われた日米親善高校野球に、高校日本代表のコーチとして帯同した際には、試合前に正確無比な外野ノックを見たスタンドのファンから、拍手喝采が沸き起こった。「英語だったから何を言っているのかはわかりませんでしたが、自信になりました」と目を細めた。

“名人芸”のルーツは、帝京大時代にあった。千葉・木更津中央高(現・木更津総合高)で主に三塁手として活躍した前田氏だったが、大学では4年間、公式戦では1度も打席に立てず、打撃投手など裏方の仕事をこなしながら悶々とした日々を送っていた。

帝京高の野球部監督を務めた前田三夫氏【写真:荒川祐史】
帝京高の野球部監督を務めた前田三夫氏【写真:荒川祐史】

4年間で公式戦通算0打席…それでも諦めなかった理由

「チームメートから自主練習で『前田、ノックしてくれよ』と頼まれることが、いつの間にか増えました。僕が打つとイレギュラーしないし、キャッチャーフライも真上に上がるから、捕りやすいと評判がよかったのです」。誰よりも回数をこなし、工夫を重ねるうちに技術が磨かれていった。

 もちろん、選手として試合に出られないストレスは相当なもので、途中で野球をやめた同級生もいた。「一緒にやめよう」と誘われたこともあったが、千葉県袖ヶ浦市で海苔の養殖と農業を営みながら学費を捻出してくれている両親のことを思うと、途中で辞めるわけにはいかないと腹をくくった。

 4年生になると、試合に出られないことに変わりはなかったが、ひたむきな姿勢を認められ、一塁ベースコーチとして初めて公式戦でユニホームを着た。さらに下級生が出場する「新人戦」で、新人監督も任された。

 そもそも、母校ではない帝京高で監督に就任することになったのも、元はといえば、帝京大4年時に春季キャンプのメンバーから漏れ、ぽっかり空いた時間を埋めようと、系列の帝京高野球部の手伝いを申し出たことがきっかけになった。念ずれば花開く。試合に出られなくても、目の前の仕事に全力で取り組み続けたことが、図らずも前田氏の野球人生に栄光をもたらした。

○著者プロフィール
宮脇 広久(みやわき・ひろひさ)1967年6月30日、東京都生まれの“KK世代”。埼玉県立川越高校、立教大学文学部を経て、1991年に産経新聞社入社。産経新聞、サンケイスポーツ、夕刊フジで計29年間、野球を中心に記者として活動。イチロー氏、松井秀喜氏らをメジャーで取材したほか、夕刊フジで巨人担当を通算12年務めた。渡辺恒雄氏に単独インタビュー3度(夕食会場張り込みは数知れず)。2020年よりフリー。

(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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