通訳つけず単身で武者修行 阪神戦力外→メキシコで得た“教訓”「何とか通じる」

メキシカンリーグでプレーしていた頃の福永春吾氏(右)【写真:本人提供】
メキシカンリーグでプレーしていた頃の福永春吾氏(右)【写真:本人提供】

台湾・台鋼ホークスで投手コーチ補佐を務める、元阪神の福永春吾

 世界各国の文化に触れた現役生活だった。2023年8月に引退を決意した元阪神の福永春吾投手は、昨秋から台湾・台鋼ホークスの投手コーチ補佐を務めている。2022年にはメキシカンリーグでもプレー。自身の決め事である「その国でプレーすると決めたからには、その国の文化に従うしかない」というポリシーを貫いたが、メキシコでは“未知の遭遇”をしていた。

 2022年はドゥランゴ・ジェネラルズとグアダラハラ・マリアッチスに所属。当時、メキシコでのプレーを選んだ経緯について「長く野球をして、誰もができない経験がしたいという思いがあった。ただ、あの時はコロナ禍。アジア圏では隔離生活で調整が難しいのもあったので、比較的、隔離(生活)のないメキシコでのプレーを選択しました」と説明する。

 航空券を握りしめて乗った機内では驚きの連発だった。「アメリカのダラスから乗り継ぎでメキシコに到着したんですけど、ある意味で想定通りの展開というか……。時差もあって寝ていたんですけど、パッと起きた時に『もう着きます』と言う感じだったので窓の外を見たら、全面が茶色でした。木もなくて、地面が剥き出しでした」。驚いたのは到着した瞬間だけではない。

「試合中のブルペンで、突然ですね。日本の球場みたいに、ブルペンと客席の間に大きなフェンスがないので、すぐ近くにファンの方がいるんです。目が合ったおじさんから『メキシコに来たなら、これを食べろよ』と手渡されたのが“サソリキャンディ”でした(笑)。ペコちゃんキャンディのサイズです。棒にサソリが突き刺さっていて、飴でコーティングされているんですけど、半透明なので、全部が見えるんです(笑)」

 恐れることなく、口に入れた。「受け取った時は『マジか……』という感じでしたよ(笑)。でも、抵抗することなく、全てを当然なことだと受け入れようと思っていたので」。ブルペン間近で観戦していたおじさんも笑顔だった。

メキシカンリーグでプレーしていた頃の福永春吾氏(左)【写真:本人提供】
メキシカンリーグでプレーしていた頃の福永春吾氏(左)【写真:本人提供】

通訳がいなくてもできる「心のキャッチボール」

 試合展開を至近距離のファンと追う展開が続いた。「だから、試合中ずっと(サソリキャンディを)舐めてました(笑)。イニングが進むにつれて、自分の舌にサソリが当たるようになるんです。チクチクしたり、ゾクゾクしたり……。ブルペンでもスリル満点でした(笑)」。ツンツンと口内で当たる食感は「海老を揚げた感じに似てました」と振り返る。その表情には、異国の地でプレーする覚悟があった。

 メキシコには単身で乗り込んだ。通訳もいない。「最初は飛行機の乗り換えから全てが怖かったです。荷物をどう預ければ良いのか、どこから出てくるのかもわからない。スペイン語は全くわからなかったので、英語を話せる老夫婦に助けてもらいました」。改めて、人の温もりを感じた。

 言語がわからなくても、生活はできた。「例えば、日常会話ができなくても『一緒にコーヒー飲もうよ』と言う努力は心掛けていました。単語を繋いでいくと、なんとか通ずることがある。チームに馴染んで、距離が縮まれば、野球の練習や連携もスムーズになりますから」。言語が違っても“会話”を楽しんだ。

「人を介してしまうと、コミュニケーションが取れなくなるんです。通訳さんが居てくれる環境が1番良いんでしょうけど、それだけでは『言葉のキャッチボール』になる。一生懸命、伝えようとして、自分と相手で『心のキャッチボール』をしないといけない。距離を縮めるためには、言葉を覚えること、その国の文化を学ぶことが大切だなと感じました」

 今春には30歳を迎える。「コーチになった今も感じています。その選手の日常や性格を、自分から知りたい。少しでも理解したいなと思います」。サソリキャンディの味は、忘れられないものになった。

(真柴健 / Ken Mashiba)

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