“甲子園のアイドル”は「超高校級だった」 鉄腕に脱帽も…危惧し続けた「投げすぎ」

元中日・藤波行雄氏【写真:山口真司】
元中日・藤波行雄氏【写真:山口真司】

藤波行雄氏らの静岡商は“新浦不在”でも夏の甲子園8強に進出

 日本中を熱狂させた1969年夏の甲子園決勝、松山商(北四国)対三沢(北奥羽)は激闘の末に延長18回0-0で引き分け。再試合で松山商が4-2で勝利したが、2試合27イニング、384球を一人で投げ抜いた三沢・太田幸司氏(元近鉄、巨人、阪神)は甘いマスクでアイドルとなった。その大会に元中日外野手の藤波行雄氏も静岡商の主将として出場。8月末からは全日本高校選抜メンバーとして太田らとブラジル・ペルー・アメリカ遠征も経験した。

 その年の夏の甲子園、静岡商は準々決勝で松山商に1-4で敗れた。1回戦は東海大相模(神奈川)、2回戦は日大一(東京)を破ったが、そこで力尽きた。前年(1968年)夏の準優勝を超えられなかった。「松山商との対戦が決まった時、監督に『(主将が)一番強いチームを引いた』って怒られた。笑い話だけどね。でも、やっぱり松山商は強かった。俺が打てなくて負けた。4タコ。(松山商のエース)井上(明)のカーブが全く打てなかった」と藤波氏は苦笑した。

 だが、やれることはやったとの自負はあった。甲子園準優勝の立役者だった新浦壽夫氏が高校を中退して巨人入り。エース育成からやり直して夏までに態勢を整えた。「最終的にサードの松島(英雄)を投手にしたんだけど、これが大正解だった。コントロールがよかったし、スピードもあった」。静岡大会を勝ち上がり、決勝は静岡高に1-0。藤波氏が入学を迷った相手に勝利して2年連続甲子園出場を決めた。

「決勝が静高だったのも因縁だよね。それも1-0。当時は金属じゃなくて木のバットだったし、ウチはホームランをパカパカ打つような野球じゃないからね。バントとかスクイズとかの細かい野球を徹底的に教えられた。ウエートトレーニングをやってのパワーヒッティングというのはやっていない。走力を身につけるためにランニング量はめちゃくちゃ多かったけどね。だから俺は小技が得意だったし、自信もあった。それは大学、プロでも生きたと思う」

 甲子園大会終了後、藤波氏は全日本高校選抜入りした。三沢・太田をはじめ、宮崎商・西井哲夫氏(元ヤクルト、ロッテ、中日)や仙台商・八重樫幸雄氏(元ヤクルト)らが名を連ね、静岡商からは松島(元大洋)も選ばれた。ブラジル、ペルー、アメリカに遠征し、親善試合を20試合行い、17勝3敗の成績だった。「俺は最初レギュラーじゃなかったけど、途中から1番で使ってもらった」と藤波氏は懐かしそうに話した。

全日本高校選抜で三沢・太田とプレー「まさに超高校級だった」

 全日本高校選抜選手団の監督は甲子園優勝の松山商を指揮した一色俊作氏。「俺は松山商戦で4打数ノーヒットだったし、最初、一色さんの目にはいいようには映ってなかったんじゃないかと思う」と藤波氏は言う。それだけに1番で起用された時は気合も入った。実際「1番・藤波」になってからチームも勝ちだしたそうだ。「3、4、5、6番には八重樫とかがっちりとした力があるバッターがいたからね」。

 レベルの高い選手たちとの交流など、この遠征も貴重な経験になったという。とりわけ、太田については「モノが違った。まさに超高校級だった」とうなった。1969年9月6日、ブラジル・マリンガ市で行われたマリンガ戦で太田は完全試合を達成。日本選抜が15-0で大勝した試合には藤波氏も出場していた。「強いチームもあったけど、相手によっては大差がついちゃうケースもあったよね」と話すものの簡単にできる記録ではない。

 ただ、藤波氏は複雑な表情でこうも話した。「太田は三沢でずっと一人で投げていた。決勝の延長18回も、次の日も。ホント鉄腕だよね。日本選抜でもナンバーワンのピッチャーだったよ。でもあれだけ投げていたから、プロに入った時は肘とか肩とかきていたんじゃないかな。昔はこいつで行くぞとなったら、そのピッチャーばかり投げていたからね。投げても投げても投げられるピッチャーっていたんだけど、やっぱり投げすぎだったよね」。

 静岡商は秋の長崎国体で優勝した。夏の甲子園で敗れた松山商にもリベンジ。準決勝で対戦して延長12回1-0でサヨナラ勝ちした。玉島商(東中国)との決勝も1-0で制した。エース・新浦不在も乗り越えて結果を出した高校最終年。進学の際は静岡高と静岡商で悩んだが、終わってみれば静岡商を選択してよかったということだろう。だが、次の進路でもまた試練が待ち受ける。山あり谷ありの野球人生はさらに濃密なものになっていく。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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