日本代表で起きた死亡事故…晴れ舞台が暗転 「俺のセカンドゴロで」19歳を襲った悲劇

元中日・藤波行雄氏【写真:山口真司】
元中日・藤波行雄氏【写真:山口真司】

藤波行雄氏は中大3年時に、第1回日米大学野球のメンバーに選出された

 悲しい出来事に遭遇してしまった。元中日外野手の藤波行雄氏は1972年、中央大3年時に「第1回日米大学野球選手権大会」のオールジャパンに選出された。神宮球場、岡山県営球場、中日球場を舞台に7試合行い、日本が5勝2敗で勝利したが、藤波氏は第2戦(7月9日、神宮)の悲劇が脳裏にこびりついている。早稲田大2年の東門明内野手が走塁中に送球を頭に受け、帰らぬ人になったことだ。「俺がセカンドゴロを打って併殺プレーで……」と表情を曇らせた。

 日米大学野球選手権は青山学院大・下村海翔投手(阪神ドラフト1位)がMVPに輝いた2023年大会が第44回。藤波氏も出場した1972年大会が、その記念すべき第1回だった。エースは関西大・山口高志投手(元阪急)で、法政大・山本功児内野手(元巨人、ロッテ)、慶応大・山下大輔内野手(元大洋)、法政大・長崎慶一外野手(元大洋、阪神)らがメンバー入り。総監督は早稲田大・石井藤吉郎監督、監督は関西大・達摩省一監督が務めた。

 藤波氏はこう話す。「俺、早稲田を落ちて、中央に行ったけど(総監督の)石井さんはそのことを知っていたわけ。“藤波はウチを受けに来て受からなかったんだよな”って。それでも石井さんは1回目の日米のメンバーに俺を選んでくれた。中央でやっているのを見ていてくれた。うれしかったよね」。自然と気合も入っていた。

 大会は1972年7月8日に神宮球場で開幕し、7試合を戦い、日本が5勝2敗で制した。MVPは快投の連続で3勝をマークした山口投手が受賞。米国チームには後にレッドソックスなどで大活躍する南カリフォルニア大のフレッド・リン外野手や元巨人のウォーレン・クロマティ外野手(マイアミ・デイド大)らが名を連ねていた。まさかの悲劇は第2戦で起きた。7回に東門内野手が代打安打。1死一塁で1番打者・藤波氏のセカンドゴロで……。

早大・東門明さんが送球を頭に受けて死去…19歳の若さだった

「4、6、3のゲッツーになるところで、ショートのファーストへの送球が(走者の)東門の頭に当たっちゃったんだよね。俺は一塁へ必死に走っていたから、その瞬間は見てないけど、スライディングせずに線上に立ち止まってよけきれなかったみたい。ホント、まさかだよね。それで亡くなってしまったのだから……」と藤波氏は声のトーンを下げた。病院に運ばれた東門さんは、それから5日後の7月14日に息を引き取った。19歳の若さだった。

「すごい悲しい出来事だったね。ショックでしたよ。東門は将来有望な選手だった。(日本代表の)2年生は名城大のピッチャー・森部(繁幸)と2人。早稲田からは1人だけだったもんね。早稲田には鍛冶舎(巧)や楠城(徹)、鈴木(治彦)とか他にもいい野手がいた中で、選ばれたのは東門だけ。その東門が事故に遭うなんてねぇ……。サードかショート。肩が強かったし、ひょっとしたらプロにも行っていたかもしれない。そういう力があったと思う」

 大会終了後の7月20日、早稲田大の大隈講堂で東門さんのお別れ会が行われた。「俺も行きましたよ。日米のメンバーが集まった。本当に悲しかったね。あんなことが起きるなんて、思わないからね」と藤波氏は当時を思い浮かべながら、無念そうに話した。「東門の話が出るたびに、俺の名前も必ず出てくる。セカンドゴロを打ったのが俺だから……」とまた寂しそうな表情も浮かべた。「不運だったとしか言いようがないよね。送球した(米国代表)ショートの(アラン・)バニスターも相当、ショックだっただろうけどね」。

 東門さんがつけていた背番号「13」は日米大学野球選手権における日本代表の永久欠番となった。あれから50年以上が経過したが、藤波氏は忘れることはない。「俺がもし、早稲田に受かっていたら、東門は後輩だったんだな、とか、そんなことも思ってしまうんだよね。東門が亡くなったって聞いたのは名古屋。その名古屋に、中日に後に俺が入ったのも、すごい因縁だよねって……」。そしてまた「本当にいい選手だったんだよ」と繰り返した。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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