「お前、2試合で1軍か」先輩は“激怒” ぶつかり稽古で負傷…ドラ1を襲ったプロの洗礼
藤波行雄氏は1年目のキャンプで右膝を痛めて途中離脱
藤波行雄氏は1973年のドラフト1位で中日に入団した。1年目の1974年は90試合に出場し、打率.289、1本塁打、15打点。チームは20年ぶり2度目のセ・リーグ優勝を果たし、藤波氏は新人王に輝いた。「この成績では普通なら該当者なしになりそうですよね。優勝したのが大きかったんでしょう。運もあったと思う」と話したが、スタートは大変だった。開幕前のオープン戦出場は最後の2試合だけ。これにはキャンプで受けた「プロの洗礼」が関係していた。
東都大学野球歴代1位の通算133安打を放ち、“東都の安打製造機”と呼ばれたドラフト1位・藤波氏への球団の期待は大きかった。それは、現役時代に首位打者や盗塁王のタイトルを獲得した中利夫氏の背番号「3」を継承させたことでもわかるところ。藤波氏は「3番はうれしかったけど、重荷でもありましたよ」と笑いながら明かしたが、実際、浜松春季キャンプはいきなりの“試練”だったという。
「A班、B班、C班とかに分かれて時間で動いていくんですけど、そんなの大学ではやっていなかったから、次に何をやっていいかもわからないわけ。バッティング、おい次行くぞって言われても(ケージが)3か所あって、どこに行っていいのかもわからない。もうオタオタしましたね」。ドラフト1位で注目されていたからなおさらだろう。「一緒の組で回る大島(康徳)さんと井上(弘昭)さんには『お前か、東都の安打製造機は』って言われて……」。
強烈だったのはスライディング練習だったという。「ウォーリー(与那嶺要監督)はその練習が好きだったんですけど、サンドバッグが置いてあって、それにぶつかっていくんです。柔道の下を履いてね。それを物凄くやらされた。大島さんとか井上さんはぶつからないんですよ。レギュラーだから。それで『お前は行け!』って当たりに行くわけ。プロの洗礼を受けました。最初の20日間くらいは基礎練習ばかりだし、もう疲れましたよ」。
その後、藤波氏はオープン戦前に右膝を痛めて離脱した。「たぶん、あの練習の後遺症だったんですよ」。もともとは“ぶつかり稽古”が原因だったそうだが「膝が痛いなって思っている時に個人ノックがあったんです。普通は3、4人で受けるところが1人だけで。あれでいっぺんにきちゃった。それで出遅れちゃったんですよ」。膝の違和感を申告できずに悪化させた無念。期待の大物ルーキーにとってはつらい時期だった。
開幕前のOP戦ラスト2試合で復帰…1本のヒットが開幕1軍を呼んだ
故障が癒えて、藤波氏がオープン戦に出場したのは開幕前のラスト2試合だけ。阪急戦だった。「2試合とも代打。2打数1安打でした。2試合目にアンダースローの足立(光宏)さんから三遊間にヒットを打ったら、1軍に入れたんですよ。あの頃のセ・リーグにはアンダースローやサイドスローのピッチャーが多かった。阪神の上田二朗さん、巨人の小林繁、広島・金城(基康)、ヤクルトの会田(照夫)さん、大洋の山下律夫さんとかね。ウォーリーはそれを考えたと思う」。
当時の中日はアンダースロー投手を苦手にしており、与那嶺監督はその対策に躍起だった。そんな時に“東都の安打製造機”藤波氏が目に留まった。阪急・足立から放ったヒット1本だけで開幕1軍メンバーに入れたわけだ。「あの時、足立さんから打ってなかったら、1軍には残れなかっただろうね。先輩選手は怒っていましたよ。『お前、2試合で1軍か』って言われましたから」。まさにギリギリのところでつかんだ1軍切符。そして、そのチャンスを生かしていった。
1974年4月6日の開幕戦(対広島、中日球場)、藤波氏は4回裏に代打で出場し、佐伯和司投手から中前打を放った。プロ初打席初安打だ。その後も4月はすべて代打出場ながら打率.444と結果を残した。5月14日のヤクルト戦(中日球場)では「2番・左翼」で初スタメン。6月23日の広島戦(中日球場)では広島・安仁屋宗八投手からプロ初本塁打をマークするなど、一段一段、階段を上っていった。
「初ホームランの時はキャッチャーが中央大の先輩の水沼(四郎)さんで嘘をつかれたんですよ。『真っ直ぐでいくからな』と言ってスライダー。後輩だから遊ばれていたんだけど、それに、たまたまタイミングがドンピシャ合っちゃってレフトに飛んでいったんです。あれも運でしたね」。派手さはないが、きっちり仕事をこなしていく藤波氏は、この年の中日優勝に貢献して新人王に輝いた。
「セ・リーグは前の年が新人王該当者なし。2年連続該当者なしはよくないってことで選ばれたんじゃないのかな。大した新人王ではないですよ。そういう運も重なったんです」。藤波氏は運を強調したが、運も実力のうちではある。優勝&新人王のプロ1年目。キャンプで苦しんだのが嘘のようなシーズンは、中日での明るい未来を予感させるものだったはずだ。予想できるわけがない。そこからわずか3年後のトレード騒動を……。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)