「もう真っ白」トレードを引退覚悟で拒否 「悪質」と猛批判も…決意した野球協約破り

元中日・藤波行雄氏【写真:山口真司】
元中日・藤波行雄氏【写真:山口真司】

ドラフト1位&新人王の藤波行雄氏は3年目のオフにトレードを通告された

「さぁこれからって時にドーンと来た」。ドラフト1位入団で、1年目に新人王に輝いた元中日の藤波行雄氏にとって、まさかの出来事は3年目のオフ、1976年11月に起きた。クラウン(現西武)へのトレードを通告され「もう頭の中は真っ白。『ちょっと待ってください』と言いました」。悩んだ結果、藤波氏が出した答えはトレード拒否。「ずっとドラゴンズでやりたい」と訴えた。「駄目ならユニホームを脱ぐつもりでした」。しかし、球界内では当然の如く“逆風”が吹き荒れた。

 藤波氏のプロ1年目、1974年に中日はセ・リーグ優勝を果たした。巨人のV10を阻止しての20年ぶり2度目の栄冠だった。10月14日、名古屋市内で優勝パレードが行われた。だが、雨の影響でシーズン残り2試合の巨人戦がその日にダブルヘッダーで順延となり、パレードと重なってチーム内は「パレード組」と「後楽園組」と分かれることに。藤波氏は、ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄氏の現役ラストゲームで引退セレモニーが行われた「後楽園組」だった。

 藤波氏は2試合ともスタメン出場。4-7で敗れた第1試合は「1番・中堅」で5打数2安打。0-10の第2試合は「1番・左翼」で4打数1安打だった。「長嶋さんの『我が巨人軍は永久に不滅です』の名言も聞いた。逆にいい思い出になりましたよ」と藤波氏は言う。「でも日本シリーズ前にパレードなんて今だったら考えられないよね。しかも公式戦が残っていたなんてね。でも、あの頃はそれも平気でやれたんだよね」と何とも言えない表情も浮かべた。

 そのわずか2日後の10月16日に開幕した日本シリーズは、金田正一監督率いるロッテと対戦し、2勝4敗で敗れた。藤波氏は第5戦に「1番・中堅」で出場した以外、代打での出場。計3試合で6打数無安打だった。「第5戦は(ロッテ先発の)木樽(正明)さんを全然打てなかった。シュート、シュートでね。あの時のロッテは村田兆治さん、成田(文男)さん、金田(留広)さん、木樽さんといいピッチャーが4人もいた。そりゃあ打てないよね」。

 90試合、打率.289、1本塁打、15打点の成績ながら、中日の優勝に貢献したことが評価されて、新人王にも輝いた藤波氏だが、日本シリーズでの悔しい経験も糧に、プロでさらに成長すべく巻き返しを誓った。1975年の2年目はローン・ウッズ外野手の加入もあって81試合の出場に留まったが、3年目の1976年は104試合に出場し、プロでやっていく手応えをつかみはじめた。「さあ、これからだって思っていました」。騒動はそんな3年目のオフに起きた。

悩んだ末にトレード拒否を選択「駄目ならユニホームを脱ぐつもりだった」

「あれはね、確かファン感謝デーの時だった。ナゴヤ球場で球団代表に呼ばれたんですよ。『藤波、ちょっと来い』ってね。ネット裏の記者席にも近い三塁側の部屋で『実はな、お前をトレードに出す』って言われたんです」。クラウン・基満男内野手と中日・竹田和史投手、藤波氏の1対2の交換トレードの通告だった。「基さんの名前も竹田さんの名前も出たけど、えーってなって、もう真っ白になっちゃった。『ちょっと待ってください』って言いました」。

 全く想像もしていなかった事態だった。マスコミにも大きく報じられ、気持ちも滅入った。返事を保留したまま1週間が過ぎた。だが、どうしても首を縦に振れなかった。悩んだ末に選んだ道はトレード拒否だった。「球団からは『野球協約では拒否できないんだよ』と言われたけど、駄目なら任意引退。ユニホームを脱ぐつもりだった。そういう覚悟でした。それくらい中日は好きで入った球団で愛着があったんです」。

 金銭面を考えれば移籍した方がプラスだったという。「クラウンに行けば(年俸が)上がるとも言われました。でも、そういう問題じゃない。中日でもう一花咲かせたいという純粋な気持ち。ただそれだけでお金は関係なかったんです。ドラゴンズが好きだから、ずっとドラゴンズでやりたい、と言っただけなんです」。だが、周囲の目は決して優しくはなかった。

「マスコミには悪質なトレード拒否と書かれました。認めれば悪しき前例になるってね。(中日の)選手はほとんどの人が静観だったけど『野球はどこへ行っても一緒だよ』って言う人はいた」。逆風ばかりが目立つ状況だった。それでも藤波氏は拒否の姿勢を貫いた。最終的にはファンの署名運動などもあって残留となるのだが、そこにたどり着くまで精神的にも苦しい時期が続いた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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