“トレード拒否”が大問題に 批判の嵐も…「やり合え」の後押し、受け入れた出場停止
藤波行雄氏のトレード拒否問題、残留願うファンが署名運動を実施
元中日外野手で1974年新人王の藤波行雄氏は、1976年オフにクラウン(現西武)へのトレードを拒否。出場停止などのペナルティを受けて残留したことでも知られる。令和の今でこそ「俺のプロフィルを見たら必ず出てくる。その話は永久について回るよね」と明るい表情で振り返るが、当時は身も心も大変だったはずだ。「悪質なトレード拒否」と批判されながらも“ドラゴンズ愛”を貫いたわけだが、この裏には強い味方がいたという。「今だから言える話だよ」とその状況を明かした。
藤波氏は1973年ドラフト1位で中央大から中日に入団し、1年目の1974年にリーグ優勝に貢献して新人王に。2、3年目はレギュラーこそつかめなかったが、走攻守何でもOKの貴重な存在になっていた。ところが、3年目のオフにクラウン・基満男内野手と中日・竹田和史投手、藤波氏の1対2の交換トレードが“内定”。藤波氏はナゴヤ球場で球団フロントから通告され「ちょっと待ってください」と返事を保留し、考えた末にトレード拒否を選択した。
「認めれば悪しき前例になる」など、周囲からは厳しい声が相次いだ。それでも藤波氏は譲らなかった。「駄目ならユニホームを脱ぐつもりだった」。それほどの覚悟で“徹底抗戦”した。最後は球団が折れる形で残留となったが、これに大きな影響を与えたのは地元ファンの署名運動だ。甘いマスクで人気もあった藤波氏だけに女子学生が中心になって、ドラフト1位の新人王を3年で手放すことへの反対の声を急激に高め、1万人以上の署名が球団に届けられた。
さらに藤波氏の出身地・静岡でも同様にトレード中止を求める声が広がり、球団としても無視できなくなったようだ。「ありがたかったです。野球協約ではトレードを拒否できないけど、最終的には球団内で収めろって話になってペナルティを受けて残留になったんです」。トレードはクラウン・松林茂投手と中日・竹田投手の1対1の交換で落着。藤波氏は減俸、キャンプ自費、開幕6カードの出場停止、背番号3の剥奪などの“球団処分”を受けた。
騒動は約1か月にも及んだ。その間、ファンの署名運動が始まるほど藤波氏がくじけることなく闘えたのは、恩師の中央大・宮井勝成監督の存在があったからだった。「あの時、俺が相談したのは宮井さんだけ。今だから言うけど『中日ってそんな球団なのか。(中央大OBでスカウト部長の)田村(和夫)との連合軍で粘れ、やってみろ、やり合え』と言われたんです。田村さんは球団からの雇われの身だから困っていましたけどね」。
支えてくれた中大時代の恩師…忘れられぬ披露宴でのスピーチ
宮井監督は元早稲田実監督で王貞治氏の恩師でもあり、球界にも影響力を持っていたが、藤波氏は当初「中央大野球部の選手の今後のこともあるし、いろんなことが起きないように“クラウンに行け、球団の言うことを聞け”と言われるのかと思っていた」という。だが、宮井監督はそんな状況も関係なく、周囲の厳しい見方も承知の上で、藤波氏の中日に残りたいという気持ちを尊重した。「宮井さんに言われて逆にファイトが湧いてきたんです」。
藤波氏は田村スカウト部長の球団内での立場も考え、そこには迷惑をかけることなく、不屈の精神で闘った。「これは誰とは言えないけど、実は球団内にも一人だけ、味方がいたんですよ。他の人とは言い方が全然違った。その人にも勇気づけられました。そこにファンの人たちの署名が重なって、中日に残れたんです」。この騒動に関しては今でもいろんな意見があることだろう。ただ、藤波氏が恩師の言葉を支えに“中日愛”を貫いたのもまた事実だ。
トレード騒動から1年後の1977年オフに藤波氏は結婚。披露宴での宮井監督のスピーチが忘れられないという。「あんなことがあって球団に残してもらったのに、宮井さんは球団社長や球団代表がいる前で『俺は藤波を中央大の監督にしたかった。中日に行かなかったら大学に残した。本当は大学に戻したかった』って言ったんですよ。そんなふうにバックアップしてくれたんですよ。それくらい、俺のことをすごくね……」。
宮井監督は2020年8月7日に肺がんのため、94歳で亡くなった。「中央大学で1年春から使ってくれたのも宮井さんだし、中日との縁を作ってくれたのも宮井さん。トレード(騒動)の時もね……。何というかなぁ、すごい恩があるんですよ。恩師というか、特別。宮井さんは俺にとって特別な存在なんです」と藤波氏は感謝の言葉を口にした。
「藤波行雄といえばトレードを拒否したっていうのは切っても切れないから、それはいいんですよ。そんな野球選手がいたってことでね」。もちろん、この騒動によってトレード相手だった基内野手、結局、中日から移籍した竹田投手、クラウンから中日に来た松林投手ら、いろんな人の野球人生にも影響を与えたこともわかっていた。“中日愛”を貫くとともにトレードを拒否した責任も背負って、藤波氏はその先の現役生活を送っていった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)