覚悟し続けた戦力外も…大仕事で延ばした“現役生活” 完全試合投手に引導を渡した粘り腰

元中日・藤波行雄氏【写真:山口真司】
元中日・藤波行雄氏【写真:山口真司】

平野謙の台頭で出番激減も…藤波行雄氏は代打で力を発揮

 巧打の外野手として中日で活躍した藤波行雄氏はプロ5年目の1978年、初の開幕スタメンを勝ち取った。「1番・中堅」で4打数2安打1打点の好スタート。だが、レギュラー定着には至らなかった。その後は調子を落としては取り戻す“粘り腰”で現役生活をキープ。1987年に引退するまで、いろんなことがあった。5年目以降、中利夫氏、近藤貞雄氏、山内一弘氏、星野仙一氏に仕えた。その中で「中さんに申し訳ないことをした」とシンミリ話した。

 藤波氏は中央大からドラフト1位で中日に入団し、1974年から1987年まで14年間、現役生活を送った。中利夫外野手の背番号「3」を継承し、1年目にリーグ優勝&新人王。だが、3年目を終えた1976年オフにクラウン(現西武)へのトレードを拒否したことで、「3」を剥奪されて「40」に変更されるなどのペナルティを受けた。以降は「結果を出さなければクビになる」と覚悟しながら、愛着あるドラゴンズのユニホームを着続けた。

 そんな藤波氏にとって、大チャンスだったのが1978年から1980年までの中監督時代だ。「中さんは俺を使ってくれた。背番号3の後継者として気にしてくれていたと思う。その時はもう3番じゃなくて、40番だったんだけどね」。1978年4月1日の開幕・大洋(現DeNA)戦(ナゴヤ球場)では「1番・中堅」で起用され、2安打1打点と活躍した。「2番・二塁」高木守道とコンビを形成し、4月終了時点では打率.302をマークした。

 しかし「続かなかったんですよね」と藤波氏は唇をかむ。5月以降、成績は下降し、8月下旬には故障離脱。「その時は有鉤骨の疲労骨折だったかな」と悔しそうに振り返った。5年目は96試合出場で打率.231。藤波氏の開幕スタメンはその年が最初で最後になった。「中さんは一番多くスタメンで使ってくれた監督なんです。でも、チームに貢献できなかった。いい成績を残せず、中さんには申し訳なかったと思います」。

 6年目の1979年は116試合で打率.299、7年目の1980年は119試合で打率.291。藤波氏の出場試合数は中監督時代が最も多い。それだけ期待されていたわけだが、“中体制”3年間のチーム成績は5位、3位、6位。最後の年は12年ぶり最下位に沈み、中監督は解任された。なおさら、申し訳ない気持ちになったわけだ。

 1981年からは近藤貞雄氏が監督に就任したが、藤波氏は再び控えになった。「近藤さんは平野謙(外野手)を使い始めた。それで俺の出番は激減したんだよね」。この年の藤波氏は前年の半分以下の41試合出場で打率.210。一気にまた首筋が寒くなったが、ここからまた粘った。「代打で生きていくしかないと思ってやりました。この世界で俺は何で食っていくかって考えてね。成績が下がっても、1回しょぼくれても、盛り返したと思います」。

生きがいだった「中日のユニホームを着て試合に出られる喜び」

 9年目の1982年は74試合で打率.259と、前年より成績アップ。10年目の1983年は90試合で打率.325と、準レギュラー的な存在に復活した。「1982年は優勝しましたしね。西武との日本シリーズは(2勝4敗で)負けたけど、俺は第5戦で(東尾修投手から)センター前ヒット。日本シリーズに2回出たけど、俺はその1本しか打っていない。よかったですよ。1本打っといて」と笑みも浮かべた。

 山内一弘氏が監督になった11年目の1984年では、記憶に残る一発があった。5月20日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)で鈴木正幸投手から代打満塁ホームランを放った。「ポールに当たったんだよ。それはすごく印象に残っている」。現役14年間の通算本塁打数は24。シーズン1、2本の時が多く、1984年シーズンも唯一の一発が、その代打満塁弾だった。

 藤波氏のキャリアハイは1977年の6本塁打だが、同年8月9日の巨人戦(ナゴヤ球場)での代打3ランにも思い出があるという。それは中央大の先輩である巨人・高橋良昌投手から打ったもの。「シンカーか何かが落ちなくて、ホームラン。高橋さんはその後(巨人コーチを経て1986年に)中日の1軍投手コーチになったんですが、その時に言われたんですよ。『俺はお前に打たれたから現役をやめた』って」。

 高橋氏は東映(現日本ハム)時代の1971年8月21日の西鉄戦(後楽園)に完全試合を達成した名投手。1973年にトレードで巨人に移籍したが、藤波氏に一発を浴びた1977年シーズン限りで現役引退した。「高橋さんは俺に冗談で言ったのか、本気で言ったのか、わかりませんけどね。そういうことも考えると人と人の縁って面白いですよね」と藤波氏は言う。それもまたトレード拒否騒動以降、より必死になって出した結果のひとつでもある。

 プロ12年目、1985年4月21日の阪神戦(ナゴヤ球場)でプロ野球252人目の通算1000試合出場を達成した。チャンスを与えてくれた中監督時代にレギュラーの座を完全につかみきれなかったのは無念だったが、めげずに与えられた仕事を全うした。「代走でも守備要員でも代打でもスタメンでも途中から出場でもいいから、中日のユニホームを着て試合に出られる喜び。それが生きがいだった」。この気持ちが藤波氏の現役時代の支えだったし“武器”だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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