「高校行かんで、働いてもらっても…」 北山亘基が仰天した父の言葉、愛称“教授”の原点

日本ハム・北山亘基【写真:矢口亨】
日本ハム・北山亘基【写真:矢口亨】

12球団から調査書も…現実は8位指名

 日本ハムで3年目を迎える北山亘基投手は、昨季6勝5敗の成績を残した。2022年はルーキーながら開幕投手を務め、その後は抑えに抜擢。そして2年目はシーズン途中で先発転向と、まだ短いプロでのキャリアの中であらゆる経験を積んできた。本人は最初の2年間をどう捉えているのか問うと、「教授」という愛称で呼ばれるだけの冷静な答えが返ってくる。なぜそこまでしっかりと計画して物事を進められるのか。思考の原点を聞いた。

 ドラフトで指名された2021年の秋、北山のプロでの目標は恐ろしく現実的だった。「2年目の後半に1試合とか2試合とか、お試しで先発させてもらえたらといいなというつもりで入りました」。なぜそこまで細かく設定できたのかと問うと、こうキッパリ答える。

「ドラフト8位だからですよ。僕だったらいきなり使うなんてしませんから」

 京産大のエースとして活躍した北山のもとには、12球団から調査書が届いた。上位指名をほのめかす球団もあったという。そんな中で迎えたドラフト会議、自分の名前はなかなか呼ばれない。指名順が評価だと受け止めざるを得なかった。「1位、2位、3位の選手は1年目に使うでしょうけど……」。そんな中でどう目標を立て、達成していくべきかと考えた末に立てたのが、最初の目標だった。

 入団発表でスカウト部長に「ポテンシャルを見せてくれれば、2~3年後にはローテーションに入る投手です」と紹介されたのも、設定を後押しした。ところが、チームは新庄剛志監督が就任して変革期にあった。実際に歩いたのは、全く違うルートだ。キャンプインは2軍で迎えたものの、すぐにボールの強さで注目された。リリーフ要員として開幕1軍に残り、開幕投手の指名まで受けたのはさすがに驚いた。

「ストレートをそこまで評価してもらえるとは思っていなかったんです。もしリリーフをやるとなれば目標設定も変わってくる。すぐ戦力になれるよう、アピールするようにしました」。数か月前に立てたばかりの目標を「Bプラン」に切り替え、ルーキーイヤーを駆け抜けた。そして2年目には先発として戦力になってみせた。配置転換がハマらないケースもある中で、自在な立ち回りを見せられたのにも理由がある。

「最初に立てた『2年目の最後に先発』というイメージは捨てていませんでしたよ。だって選手の活かされ方は、コーチや監督のひとことで決まるじゃないですか。だから準備はしていましたし、それで先発もこなせたようなものなんです」

日本ハム・北山亘基【写真:矢口亨】
日本ハム・北山亘基【写真:矢口亨】

まるでビジネスマンのような目標設定、父の言葉で生まれた覚悟

 北山と話していると、目標達成サイクルの自在な回し方に驚く。目標を立てて、そこにむけて改善、修正を繰り返していく。まるで一流ビジネスマンのようだ。「野球選手でいられる期間はボーナスタイム」と言われたことも。その思考の原点を思い返してもらうと、中学3年のときにあったという。

「父に『高校に行かんで、働いてもらってもええんやで』と言われたんです」

 どういうことか。北山家は一般的なサラリーマン家庭で、弟が2人いた。野球というスポーツを第一線で続けようとすれば、どうしてもお金がかかる。「言われた時はびっくりしましたけど、確かにそうなんですよ。最終的に野球で食べていけなければ、かけたお金は無駄になるんです。生きていかないといけないので」。同時に、野球を続けられるうちは、徹底的にこだわろうという気持ちが芽生えた。「いつまで続けられるか分からないのなら、まず高卒でプロにいって親を楽にさせたいと思うようになりましたね」。

 そして、いつか野球を続けられなくなる日への覚悟もできた。高校時代の成績が良かったのは「野球を続けられなくなったら、勉強して国立大学に行けるように」という人生設計のためだった。「並行して物事を進めるのは得意なんです」という習慣づけが、後にプロでは様々な起用に応えることにつながった。

 実際には、京都成章高を卒業する時には、プロの扉は開かなかった。ただ京産大に進んでも、目標達成へ積み重ねを大切にする習慣は変わらなかった。「4年後の大卒ドラ1を目指して」計画を立て、フィジカルトレーニングに取り組んだ。柔軟性、筋力やバランスといった数値に目を配り、ウエートトレーニングは重さや角度にまでこだわった。4年になると、あらゆる数値がOBの平野佳寿投手(オリックス)の在学当時と、そん色ないレベルに達していた。

 中学生の時まで厳しかった父は、高校へ進んでからは何も言わなくなった。「あとは自分で決めろということなんだと思います。自分の力で進んでいけるように、道を付けてくれたんじゃないですかね」。岐路に立つと、今も両親の顔が頭に浮かぶ。授けてくれた“生きる力”に感謝し、きょうも一歩ずつ前に進んでいく。

○筆者プロフィール
羽鳥慶太(はとり・けいた)名古屋や埼玉で熱心にプロ野球を見て育つ。立大卒業後、書籍編集者を経て北海道の道新スポーツで記者に。北海道移転以降の日本ハムを長年担当したほか、WBCなどの国際大会やアマ野球も取材。2018年には平昌冬季五輪特派員を務める。2021年からCreative2で活動。

(羽鳥慶太 / Keita Hatori)

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