コーチの一言に「もうがっかり」 怪我の“虚偽申告”で2軍落ち…腹括った戦力外

元中日・藤波行雄氏【写真:山口真司】
元中日・藤波行雄氏【写真:山口真司】

藤波行雄氏はプロ14年目の開幕前、星野仙一監督に声を掛けられた

 ドラフト1位入団で1974年新人王の元中日外野手・藤波行雄氏はプロ14年目の1987年シーズン限り、36歳でユニホームを脱いだ。他球団で現役を続ける話もあったが、3年目のオフにクラウン(現西武)へのトレードを拒否した男は最後までドラゴンズ愛を貫いて幕を引いた。ラストイヤーは星野仙一監督の1年目で、開幕前に事実上の“引退勧告”を受けていた。「仙さんからの一番丁寧な贈る言葉だった。あの人らしいと思った」という。

 藤波氏はプロ13年目の1986年、57試合出場で48打数9安打の打率.188に終わった。代打でなかなか結果を出せず、このシーズンの初安打は7月10日の大洋(現DeNA)戦(横浜)と苦しんだ。オフには中日OBで当時39歳の星野氏が監督に就任。「浜松秋季キャンプで、仙さんは『俺は妥協しない』と言って、ベテランも若手と一緒にきつい練習をさせられました」。14年目の逆襲に向けて必死に食らいついたが、厳しい立場に変わりはなかった。

 星野監督はチームの若返りを目指した。そんな構想もあって、長きにわたって中日の主砲として君臨してきたベテラン・谷沢健一内野手はオフになってから引退を表明した。藤波氏は大島康徳外野手に次ぐチーム2番目の年長者となり、いよいよ待ったなしの気分でプロ14年目のキャンプ、オープン戦に臨んだ。目標もあった。1988年に開場する日本初の屋根付球場・東京ドームでプレーすることだ。

 しかし、その夢はかなわなかった。「3月のオープン戦の時、ナゴヤ球場のロッカールームで俺と、阪急から来たピッチャーの小嶋(正宣)が着替えていたら、仙さんが『波!』って言いながらやってきた。監督が選手のロッカーに来るなんて珍しいんだけど、そこで言われたんです。『お前ら2人、ロッカー、立つ鳥跡を濁すな』って。えーって思いましたよ。“ロッカーをきれいにしとけ”っていうのは、要するに今年で終わりってことですからね」。

 シーズン開幕前に非情な通告のように思えるが、藤波氏は「わざわざ、監督が俺らのところに来たわけですからね。あの人らしいと思いました。それは仙さんからの俺らへの一番丁寧な贈る言葉だったんですよ」。ただし、その状況に納得しながらも、その段階では気持ちを切らさず、最後のシーズンと腹をくくって、やれることをやろうと考えたという。結果、オープン戦は最後まで1軍に残った。

「なかなか2軍行きを言われないから、もしかしたら開幕は1軍なのかなって思ったんですけどね」と苦笑する。最後の最後になって木俣達彦総合コーチから開幕2軍を告げられた。「最後の練習が終わって、シャワーを浴びて着替えて、帰りの車に乗り込む直前の駐車場で『明日からファームの方に行ってくれ』ってね。木俣さんもなかなか言いづらかったんだろうと思う。こっちとしてはもうちょっと早く言ってほしかったっていうのはありましたけどね」。

コーチの言葉に立ち直れず…嘘の申告で自ら2軍降格

 そんな藤波氏に1軍での出番が回ってきたのは4月22日のヤクルト戦(神宮)。若手の彦野利勝外野手が体調不良で出場できず、代役の「1番・中堅」だったが、3打数1安打1打点で勝利に貢献した。開幕2軍でも腐ることなく調整したからこそだった。だが、実はこの時に気持ちは逆に萎えたという。「(ヤクルト先発の)尾花(高夫)からセンター前にタイムリーを打ったんだけど、コーチに『あのバッティングじゃ駄目だ』って言われたんですよ」。

 それを聞いて藤波氏は「もうがっかりしてしまったんです」と明かす。「よくやった、次もやってくれよ、の感じじゃなかった。選手はわかるんですよ。ああ、やっぱりそういうことなのかっていう空気感がね」。頑張って結果を出した後だったからこそ、精神的なダメージも大きかった。それまでは不屈の闘志で何度もよみがえってきたが、この時はもう立ち直ることができなかった。その後、4試合に出場したことも「よく覚えていない」というほどだ。

 5月上旬に2軍落ち。「今だから言える話だけど、あれはね、自分で腰痛を発症したんです。それくらいやる気をなくしたんですよ。あれで終わっちゃった」と藤波氏は寂しげな表情を見せた。当時はその気持ちを制御できなかった。腰痛の“虚申告”をしてしまうほど、追い込まれていたわけだ。そんな中、藤波氏は、新宅洋志2軍総合コーチと、中央大の先輩でもある本田威志1軍総務からの励ましの言葉が忘れられないという。

「新宅さんは『残りの日数、腐らずにやれよ』って声をかけてくれたし、本田さんは『誰が見ているかわからないから、最後の最後まで油断するなよ、練習も試合もちゃんとやっておけよ』って言ってくれたんです。それでもう一度、やる気になりました」。最後のシーズンになることは開幕前からわかっていたこと。2軍であろうと最後まで中日の選手として誇りを持ってプレーしようと思い直した。

 そしてシーズン終盤に戦力外通告を受けた。「確か、本田さんに『来季は契約しない』って言われたと思う」と藤波氏は話す。「その時に『他球団から話が来ているけど、どうする』って聞かれたけど『それはいいです。トレードを拒否して残らせてもらったし、ここで終わります』と断った」という。1976年のプロ3年目のオフにクラウンへのトレードを拒否、中日愛を貫いて残留した男は、ドラゴンズで現役生活を終えることにもこだわったのだ。

センター前に始まりセンター前に終わったプロ野球人生だった

 10月13日のシーズン最終戦、ナゴヤ球場でのヤクルト戦が藤波氏の現役ラストゲームとなった。「最後に使うからって1軍に呼ばれた。仙さんに『波、スタメンで行けるか』って言われて『代打でいいです』って言ったけどね」。5回裏に代打で出場して、ヤクルト・宮本賢治投手からセンター前ヒットを放った。「(1974年の)プロ初打席初ヒットがセンター前で、最後の打席もセンター前だった」と感慨深げに話した。

 引退後、藤波氏は東海ラジオの解説者を長く務めたが「最後の年に2軍に落ちた時、本田さんに言われてちゃんとやったから、そういう解説の話をいただいたと思っている」という。「解説をやっている時にファンからはがきが来て、俺のことを“センター前ヒットさん”って書いてくれる人もいたんですよ。センター前ヒットが多かったって印象があるんでしょうね」と笑みもこぼれた。

 14年間の現役生活。スタメンよりも代打の方が多く、1度も規定打席に到達できなかったが、1146試合に出場して539安打、打率.273。トレード拒否騒動で苦しい立場になりながらも精一杯やり抜いた。「ヤクルト戦での最後の打席はね、キャッチャーが八重樫(行雄)で『俺、これで最後だからストレート3本な』って言ったんですよ。1球目ボールで、2球目はファウルだったかな。そしたら3球目はスライダー。でも、それがタイミングばっちりでね……」。

 藤波氏が静岡商3年の夏、全日本高校選抜でチームメートだった仙台商・八重樫捕手とプロのラストゲームで縁を持てたのも何かの巡り合わせだろうか。「最後はボールが止まって見えたなぁ。それでセンター前。ビデオを撮っていたスコアラーの平松(秀敏)が『波さん、まだやれるでしょ』って言うんだよ。ビデオを見たら平松の『打ったよ、まだやれるんじゃないの』って声も入っていた。笑っちゃうよね。それも思い出だよ」。最高のラストヒットだった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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