前代未聞の延長20回完投… 気になるのは先輩の顔色、大エースが苦しんだ説教「もう地獄」

元阪急・山口高志氏【写真:山口真司】
元阪急・山口高志氏【写真:山口真司】

関大2年時の全日本選手権、山口高志氏は延長20回を1人で投げ抜いた

 偉大な先輩の背番号で新たな伝説を作っていった。元阪急(現オリックス)投手の山口高志氏(関西大学硬式野球部アドバイザリースタッフ)は神戸市立神港高校から関西大学に進学した。背番号は「11」。村山実氏(元阪神)が関大時代につけていた数字を背負った。1970年の大学2年からエース。3-2でサヨナラ勝ちした「第19回全日本大学選手権」準決勝の法政大学戦では延長20回を1人で投げ抜き、名を轟かせた。

 1968年、市神港は夏の甲子園初戦の2回戦で秋田市立に2-7で敗れた。これで山口氏の高校野球は終了。進路は大学進学1本だった。「テレビでNHKの早慶戦を見ていて、早稲田のユニホームがいいなって思っていた。今でも早稲田が好きですよ。校歌とかもね。でも周りからそういう(早大進学の)話が全然なかったんです。(身長169センチの)小さい体で東京に行ってもって思われていたんじゃないですかね」。

 そこで浮上したのが関西大だった。「兄貴も関大に行っていましたし、高校の高木監督が関大OBですから、その勧めもあってお世話になることにしました。金銭的にも関大なら家から通えるし、特待で評価されているということだったのでね」。プロからの誘いについては「何も耳に入ってこなかった。フォアボールを6つも7つも出すピッチャーでしたからね」と話す。そもそも全く選択肢に入っていなかったそうだ。

 関大での背番号は、大先輩の村山実氏もつけていた「11」。期待の証しだ。1969年の大学1年時の山口氏の成績は春秋のリーグ戦で計9試合に登板して3勝2敗、防御率0.97。登板数が多くなかったのは、4年生エースの久保田美郎投手の存在があったからだ。その年の「第18回全日本大学選手権」では千葉商大との1回戦で完全試合を達成した右腕。「久保田さんはすごかった。すごい変化球も投げていた。シュルシュルシュルって音のするようなスライダーをね」。

 久保田投手が卒業して、山口氏は2年生からエースになった。1年冬場のトレーニングでさらに下半身が強化されて、ボールの威力も増していた。春のリーグ戦優勝に貢献し、第19回大学選手権に出場。そこで起きたのが伝説の延長20回だ。1970年6月24日の準決勝、関西大対法政大は9回を終わって2-2。そのまま長い戦いに突入した。法大は8回に先発右腕・横山晴久投手から左腕・池田信夫投手にスイッチしたが、関大は山口氏がずっと1人で投げた。

306球の熱投「最初で最後かな、試合が終わって涙が出たのは…」

 試合は延長20回裏に関大4年生の4番打者・杉政忠雄内野手のサヨナラホームランで決着した。山口氏は306球を投げていた。「よく投げられたと思います。4キロくらいやせましたよ。終わった瞬間は肩を上げるのもつらかった。最初で最後かな、試合が終わって涙が出たのは……。もうしんどくて涙が出ました」。それは想像を絶するものだったに違いない。関大打線は7回から16回まではノーヒット。そんな状況の中でも投げ続けての結果だった。

「延長16回2死満塁、フルカウントのピンチで、えいって投げたら長崎(慶一外野手、元大洋、阪神、当時法大2年)がどん詰まりのピッチャーゴロ。やっぱり野手も何打席も立つのはしんどいんだなって思いましたけどね」。この大会は雨による順延もあった日程上、準決勝終了から30分後に中京大との決勝戦が開始。山口氏はさすがに登板回避となったが、まさに伝説の延長20回として語り継がれている。ちなみに関大は準優勝に終わった。

 しかし、こんなすさまじい投球をしながらも山口氏は「大学2年まではグラウンドに行くのが嫌だったですね。先輩からの説教ばかりでしたから」と明かす。「何でも連帯責任。4年生に言葉使いを間違ったらえらいことになるし、練習が終わって4年生が3年生を説教し出すともう地獄でしたね。そこから3、2とおりてきますから。グラウンドを整備して打球がひとつでも跳ねようものなら、また説教かって上級生の顔色ばかりをうかがっていましたね」

 そんな環境でもマウンドに上がれば、エースとして君臨していたわけだ。「2年の終わり頃からかな。4年生にこっちから近づくようになりました。今日はあのスナックに行きそうだなって仲間3人くらいと、そこへ先回りしてご馳走されるのを待ったりしてね」と山口氏は笑みを浮かべて振り返った。延長20回の激投も伝説の序章。1971年の大学3年の秋からはそれこそ“無双”に近い状態になっていく。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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