巨人入団予定が…ドラフト導入の悲劇 「ワンワン泣いた」2年越しで出会った運命の人
川上哲治氏と同郷の柳田真宏氏「ずっと憧れていた」
巨人で「史上最強の5番打者」と称され、タレントの毒蝮三太夫さんに似ていることから「マムシ」の異名を取った柳田真宏氏。野球人生を振り返る連載第4回で、恩師の1人である川上哲治氏を回顧する。川上氏は巨人監督在任14年で、栄光のV9を含むリーグ優勝&日本一11回を誇った名将。2013年に93歳で亡くなっている。
柳田氏は昨年5月、75歳の誕生日(21日)のお祝いとして旧友から招待され、故郷の熊本市に帰省した。その際に初めて訪れたのが、熊本市から車で約1時間半の人吉市にある「川上哲治記念球場」だ。
「入口に大きな川上さんの写真パネルが掲げられていて、球場内にも打撃フォームをかたどった銅像、たくさんの写真があった。思わずワンワン泣いてしまいましたよ。ああいう人になりたいと、ずっと憧れていましたからね」と恥ずかしそうに微笑む。
柳田氏にとって川上氏は、同じ熊本県出身の大スターだ。現役時代には戦前、戦後を通じて巨人の4番を張り、「打撃の神様」と呼ばれ、日本プロ野球初の通算2000安打も達成した。柳田氏は子どもの頃から映画「川上哲治物語 背番号16」に胸を躍らせ、高校時代の学生証には川上氏のブロマイドをしのばせていたほどだった。
熊本・九州学院高時代には、川上氏が八浪知行監督の熊本工高の先輩だった縁でグラウンドを訪れたことがあった。しかし、プロ・アマの接触が厳しく制限されていた時代とあって、遠くから頭を下げただけだった。
柳田氏はその後、1966年の第1次ドラフト会議(同年は社会人と国体に出場しない高校生を対象とする第1次、大学生と国体出場者が対象の第2次の2回開催された)で、西鉄(現西武)から2位指名され入団した。巨人が3位で指名する予定と耳打ちされていたが、西鉄が先手を打った形だった。「私はジャイアンツに行けるものだと思っていたのですが、高校2年の年からドラフト制度が導入されて、自由に球団を選ぶことはできなくなっていました」と苦笑。憧れの川上氏が率いる巨人にトレードで移籍したのは、2年後の1968年オフのことだった。
「18歳でプロに入ってきてポンと社会に出されたら…」
既に巨人の9連覇は1965年から始まっていた。柳田氏は「川上さんはミーティングで野球の話をほとんどされなかったです。かつて野村證券の社長を務めた瀬川美能留さんとか、実業界で成功した人の話をよくされ、それを野球にも取り入れていこうという考えでした」と振り返り、「18歳でプロに入ってきて、5、6年で野球を辞めてポンと社会に出されたら、右も左もわからず問題を起こす人も出てくる。そういうことも考えて、人間教育を重視されていたのではないでしょうか」と真意を察する。
グラウンド上では選手たちに「球際の強さ」という言葉で、諦めない姿勢を求め続けた。1974年、巨人はついに中日の後塵を拝して2位に終わり、V10を阻まれた。川上氏も同年限りで退任した。
中日が名古屋で優勝を決めた10月12日には、巨人も神宮球場でヤクルトと対戦し、0-5の劣勢から逆転勝ちを収めた。柳田氏は「優勝の可能性が消滅してもなお、1点ずつ返していって逆転した展開に、川上さんは『ワシがやってきた野球に間違いはなかった』と満足そうでした。やはりすごい監督でした」と感慨深げだ。
左の代打の切り札だった柳田氏は1977年、長嶋茂雄監督の下で右翼レギュラーの座を獲得し、リーグ3位の打率.340、21本塁打67打点と大活躍。長嶋監督から「巨人史上最強の5番打者」の異名を贈られた。
1982年に現役を引退すると、歌手に転身。現在は東京都八王子市でカラオケスナック「まむし36」を切り盛りしている。柳田氏に会いたくて訪れる野球ファンにも、野球に興味のない客にも、分け隔てなく穏やかな笑顔を向け、手料理を振る舞い、求められればマイクを握りプロの美声を披露する。これも、川上氏の人間教育の成果の1つかもしれない。
(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)