歌手に転向した“巨人史上最強の5番打者” 灰皿をぐにゃぐにゃ…変わらなかった負けん気

元巨人・柳田真宏氏【写真:宮脇広久】
元巨人・柳田真宏氏【写真:宮脇広久】

現役引退翌年の1983年に歌手デビューした柳田真宏氏

「巨人史上最強の5番打者」「マムシ」などユニークな異名を取り活躍した伝説的スラッガーはなぜ、歌手に転向したのか。柳田真宏氏が波乱に満ちた人生を振り返る最終回。プロ16年間で通算打率.282、通算出塁率.358、通算99本塁打をマークし、現役引退翌年の1983年には「ふたり」で歌手デビューを飾った。

 柳田氏を歌謡界へ導いたのは、作曲家で、歌手・都はるみさんらを育てたことで知られる市川昭介さん(2006年死去)だった。「かつて川崎市のお互いの自宅が近く、子ども同士が同級生という縁もあって、市川先生のお宅によく遊びに行かせていただきました。有名な歌手の方々がレッスンにいらしていました」と振り返る。

 きっかけは現役時代晩年、自宅近くのカラオケスナック。柳田氏が舟木一夫さんの「絶唱」を歌っていたのを、たまたま居合わせた市川さんの妻が聞き、想像を超える美声に驚いて、電話で市川さんを呼び出した。「絶唱」は市川さんが作曲した作品でもある。

「ヤナちゃん、歌をやるか」。最初は市川さんの誘いを固辞した柳田氏だが、「大川栄策さんも頑張っているのだから」と重ねて口説かれた。大川さんも市川門下生の1人で、市川さん作曲の「さざんかの宿」がヒットしているところだった。柳田氏は「俺はてっきり、顔がごついのが共通点で、大川さんを引き合いに出されたのだと思っていたけれど、後で聞いたら、1948年生まれの同い年という意味でした」と笑う。

 活躍したプロ野球選手がシーズンオフに歌手としてレコードをリリースすることが流行った時代でもあったが、柳田氏の場合はそんな片手間の仕事ではない。現役引退後、いよいよ市川さんのレッスンに熱がこもった。

「歌は会話だよ」「メロ(メロディー)に合わせて歌うのではない。自分の歌にメロがついてくるのだよ」と言い聞かされた。たとえば、「あなたがかんだ 小指が痛い」という歌詞を漫然と歌ってはいけない。「あなたが」と歌ってから、心の中で「どうした?」と問いかけ、「かんだ」と歌い、さらに「何を?」と問いかけてから「小指が痛い」と気持ちを込めるのだとアドバイスされた。

変わらぬ負けん気の強さでアルミの灰皿数枚がぐにゃぐにゃ

 野球にたとえて「そこはスライディングする時のスリリングな気持ちで!」「そこはホームランを打った時の気持ちで!」と言われながら歌ったこともある。一方、柳田氏の負けん気の強さも相変わらずだった。「うまく歌えないことが悔しくて、トイレに置いてあったアルミの灰皿数枚を全部、手でぐにゃぐにゃにして、後から入ってきた市川先生に笑われたことがありました」。

 レッスンの甲斐あって、1993年にリリースした田中美妃さんとのデュエット曲「どうかしてるわ」は、博水社「ハイサワー」のCMソングに採用され、約3万枚の売上を記録した。ムード歌謡グループの「敏いとうとハッピー&ブルー」にボーカルとして参加したこともある。

 75歳となった今は歌手活動のかたわら、東京都八王子市でカラオケスナック「まむし36」を経営している。現役時代の風貌から、なんとなく武骨なイメージがあるが、実際は器用で多趣味。歌だけでなく、引退後に始めた釣りも、「まむし36」で振る舞う手料理も玄人はだしだ。もちろん、少年野球教室の講師を務め、講演で野球選手時代を語ることもある。

 ちなみに、「マムシ」というニックネームの由来は、タレントの毒蝮三太夫さんに似ていると言われたこと。巨人時代、春季キャンプが行われる宮崎へ向かう際、東京・羽田空港で毒蝮さんと顔を合わせ、それ以来親交がある。柳田氏が活躍した直後のラジオ番組で、毒蝮さんが「今日は弟が打ったよ」と語ることもあった。

「昔レコードをリリースしたことのある球界OBは、結構たくさんいる。そういうやつを集めて、歌合戦のようなイベントや番組をやったら面白くないか?」。自分を育ててくれた野球界のため、何らかの形で一肌脱ぎたいと考えている。

(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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