“歓迎”した頭部死球「試合に出なくて済む」 ファンに囲まれ罵詈雑言…19歳の苦しみ
立花義家氏は柳川商からドラ1入団…「張本勲2世」と注目された
1980年代の西武黄金時代を支えた1人だった立花義家氏(韓国プロ野球サムスン・ライオンズ3軍打撃コーチ)がFull-Countのインタビューに応じ、福岡・柳川商からドラフト1位でクラウンライター(現西武)に入団した当時を回顧。「張本勲2世」などと期待されながらも結果を残せず、ファンから罵倒されたつらい経験を明かした。
入団1年目の1977年、長崎・島原キャンプに大阪タイガース(現阪神)の監督も務めた松木謙治郎氏がクラウンライターの臨時コーチとして参加。同氏は東映(現日本ハム)でNPB最多の3085安打を放った張本勲を指導して開花させた経緯もあり、立花氏は「張本勲2世」と注目を浴びることになった。
「福岡出身で、地元の球団にドラフト1位で入った高卒の野手。そこに松木さんが来られたことで、メディアがそう名付けたんだと思います」
徹底的に鍛えられた。握力不足を指摘され、毎日のようにバットを右手1本だけで握ってのティー打撃。「600から700球くらいは打っていたと思う。来たボールを延々と。練習後は箸を持つ手が上がらなくてメシが食えない。高校生上がりの1年目だから休憩もお願いできなかったからね」。
地道で過酷な反復練習。1年目は1軍での出場機会はなかったが「体力はついた。しっかり振れるようになったんじゃないかな」。2年目の1978年に就任した根本陸夫監督からレギュラーに抜擢された。
「使われた理由が分からない。オープン戦でも全然打っていなかったから。強いて言うなら守備かな。まあまあ自信があったし、根本さんは守備を重視していたので」
NPB通算923安打&171発の大田卓司が左翼、メジャー通算2561安打のウィリー・デービスが中堅。「俺がライトの守備に出ることで竹野内(雅史)さんが代打に回ることが増えた。自分が全然打てていなかったから心苦しかった」。オープン戦期間中、和田博実コーチが付きっきりで明け方近くまで素振りを繰り返したこともあった。
後楽園球場から宿舎までの道のりでファンに囲まれたことも
1978年の2年目シーズン、開幕直前に結果を残して19歳で「3番・右翼」で開幕スタメンの座を掴んだ。だが、年間成績は124試合で打率.250、本塁打なしの39打点。チームも5位に沈み、期待の若手だった立花氏はファンから格好の“標的”となっていた。
後楽園球場での試合を終えてから宿舎まで歩いている道中で、大勢のファンに囲まれた。「なんでお前が試合出てんじゃ!」「お前が打てないから負けたんじゃ!」。道を塞がれ走って逃げることもできない。罵詈雑言に耐えるしかなかった。
「明日俺が打って勝てば、この人たちは『立花よくやった!』となる。クソッタレと思いましたよ」
自身の苦しいシーズンを象徴した出来事は、広島から日本ハムへ移籍した佐伯和司投手から頭部に死球を受けた場面でも。右側頭部に投球が当たって倒れた瞬間に「明日は試合に出なくて済むんだ」と思い浮かんだという。結局、翌日も試合に出ることになったのが……。
立花氏は入団4年目の1980年に打率.301、18本塁打60打点でブレークした。その礎となったのは18、19歳でのつらい経験。そして西武は1982年の日本一から黄金時代をスタートさせていった。
(湯浅大 / Dai Yuasa)