“勝手”に変えられた名前「父が独断で急きょ」 人気俳優の影響で…変化した野球人生

元中日・都裕次郎氏【写真:山口真司】
元中日・都裕次郎氏【写真:山口真司】

元中日の都裕次郎氏…名前は昭和の大スターにあやかってつけられた

 背番号「28」の中日左腕。1982年に16勝をマークしてセ・リーグ優勝に大貢献したのが都裕次郎氏だ。滋賀・堅田高校から1976年ドラフト1位で入団し、プロ6年目にエース格として大活躍した。1989年シーズン限りで現役引退後も打撃投手、スコアラー、投手コーチ、査定担当を務め、2023年に退団するまでドラゴンズ一筋。名前は俳優・石原裕次郎にあやかってつけられたが、その野球人生はまず王貞治氏にあやかったという。

 歌手の都はるみの「都」と石原裕次郎の「裕次郎」。ビッグな有名人の苗字と名前ということでも話題になったが「それを言われたのはプロに入ってからですね」と笑った。1959年2月25日生まれ。「うちのおじいさんは違う名前にしたかったそうです」とも明かす。都氏によると、当初は祖父の定(さだむ)さんが、自身の名前に成功の「成」を加えて名付けた「定成(さだなり)」に決まっていたのを、父・治さんが「裕次郎」に変えたそうだ。

「役所に届ける寸前に父が独断で急きょ、ギリギリで“裕次郎”にしたみたいです。石原裕次郎が大好きだったので、長男にもかかわらず“次”の文字が入っている“裕次郎”にね。それをおじいさんがどう思ったかまではわからないですけど、まぁ、今となってはその名前で良かったと思います。同級生とかにすごい名前とか言われたことはなかったんですけどね」。中日では「裕ちゃん」の愛称で、誰からも親しまれた都氏はそう言ってまた笑みを浮かべた。

 そんな都氏の野球との“出会い”は「小学校に入るか入らないかくらいの時期にお寺の広場とかで近所の仲間と遊びでやっていましたね」という。「左利きなのに親父さんに買ってもらったグラブは右用でした。小学5年くらいだったかな。近所の親戚の叔父さんが監督で、大会前にみんなを集めてちょっとやるみたいなチームでは右用のグラブを左にはめていました。ちょっと変な形になるんですけどね。左用のグラブが当時はたぶん、あまりなかったんですかねぇ……」。

子どもの頃は王貞治の大ファン…中学時代に右から左打ちに変更

 真野小学校時代はソフトボールも町内会でやる程度。「5年生の時、学校のレクレーションの選択科目でソフトボールがあって自分は入りたかったんですが、鼓笛隊があまりにも少ないからって、そっちに回されたんですよ」。堅田中で軟式野球部に入り「左用のグラブを使い始めたのは、そこから」と話すが「1年の時はほぼ球拾いみたいな感じ。ファウルになると田んぼに入るので、そこに落ちたヤツを(ズボンを)まくって拾いに行っていました」と苦笑した。

 プロ野球は巨人ファンで、筋金入りの王ファン。「巨人が負けても王さんがホームランを打てば納得みたいな……。それは小学校の2年か3年くらいからだったと思う。昔はテレビ中継が7時くらいからだったでしょ。テレビをつけて初回に2点入っていたら、もしかしたら王さんがホームランを打ったんじゃないかって。4番だから初回に1点だったら、王さんのホームランじゃないですからね。そういうのも気にして見ていましたよ」。

 左投げ右打ちだった都氏は中学2年から左投げ左打ちに変えた。これも王氏の影響だった。「王さんが中学2年の時に荒川(博)さんに出会って右打ちから左打ちに変えたというのを本か何かで見たので、自分も王さんにならってそうしようと思って、ずっと決めていたんです。そこから左投げ左打ちです。1本足にはしませんでしたけど、意外にいけましたね。中学2年になったら左打ちにするということで、ある程度素振りとかもしていましたからね」。

 憧れの人と同じことをしてみたい。その思いだけでの左打ちへの転向だったが「打つ方はまぁ普通でしたね。将来ホームランバッターになろうなんて全然。結局、投げる方がメインになりました」。中学3年から本格的にピッチャー。「記憶が曖昧ですけど、県大会に行ったかなぁ。メインの皇子山球場で試合はやりましたけどね」。どこの高校から誘われることなく「一番近かった」堅田高校に進学。この時は3年後にドラ1投手になるなんて思ってもいなかった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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