16点圧勝→1か月後に食らった“惨敗” あっけなかった最後の夏…無名で終わった好投手

元中日・都裕次郎氏【写真:山口真司】
元中日・都裕次郎氏【写真:山口真司】

元中日・都裕次郎氏は堅田高2年春に7連続K…注目される存在になった

 頭角を現したのは高校2年の夏だった。元中日投手の都裕次郎氏は滋賀・堅田高2年の1975年、夏の滋賀大会1回戦の八幡商戦で7連続奪三振をマークした。当時の滋賀大会の記録で、この快投によって一気に名が知られるようになった。だが、目標の甲子園は遠かった。2年夏は準々決勝で敗れた。体力強化に励んで球速もアップし、優勝候補の一角と目された3年夏はまさかの初戦敗退。それも「練習試合で大勝したチームにリベンジされた」と唇をかんだ。

 都氏は堅田高で1年秋からエースだった。「その時は部員が9人。ピッチャーは自分しかいませんでしたからね」と振り返ったが、練習試合などを積み重ねながら、力をつけていった。2年春の滋賀大会では準決勝に進出。比叡山に2-4で敗れたものの、夏に向けて手応えも感じ取った。「その大会は準々決勝で高島に延長13回3-2で勝ったのを覚えています。あの時が一番うれしかったですね。チームとしてもその頃が一番充実していたと思います」。

 1学年上の先輩は3人。「一応敬語は使いますけど、もう友達みたいな感じでしたし、チームワークというか、何かいけそうな感じがあったんです」。そんな好ムードに乗せられたように、都氏の状態もアップした。春の4強入りを自信にして甲子園を目指した2年夏は1回戦の八幡商戦で当時の滋賀大会記録の7連続奪三振をマークするなど5-0、2回戦の信楽工戦も1-0と2試合連続完封勝利だった。

「八幡商戦は前の日に日没再試合になったゲーム。連投でしたけど、もちろん、その頃は普通だと思って投げていました。7連続三振あたりから、何となく話題に出るようになった感じです。真っ直ぐとカーブだけでしたけど、そこそこ三振を取れるようになりましたからね」。だが、準々決勝で能登川に0-3で敗れた。巻き返しを期した秋の大会はベスト8にも残れなかった。「ダークホース的な存在と言われながら結果を出せませんでした」。

3年夏は初戦で膳所高に0-2敗退…1か月前には16-1で大勝していた

 そこからチーム全体で体力強化に取り組んだという。「堅田高校にウエイトリフティングで全国でも実績のある先生が赴任して、野球部もその先生に教わるようになったんです。2年のオフの間はウエイトリフティング部と一緒に練習して、筋力が多少アップしたと思います。自分の球速も速くなって、練習試合での三振奪取率も上がりました」。1976年、高校生活最後の3年夏は“今度こそ”の思いで挑んだ大会だった。

 しかし、結果は無残だった。滋賀大会1回戦で膳所に0-2。「まさか初戦で負けるとは思っていなかった。膳所高校とはその1か月前くらいに練習試合をやって、確か16-1で勝ったんです。試合が終わって自分らが帰る時、膳所高校の選手が罰走をさせられていたのを見てましたけど、夏の大会でリベンジされてしまいました。決してなめていたわけではないんですけど、こっちは2安打しか打てなくて……」。16点が0点。見事にしてやられたわけだ。

 結局、都氏の高校時代は2年春の県大会4強が最高成績。滋賀県では名が知られていたが、全国的には無名の存在といっていい。それでもプロの評価は高かった。1976年ドラフト会議では中日から1位指名を受けた。「10球団くらい挨拶には来られましたが、とりあえず挨拶って感じで、自分ではよくて3位と思っていました」。まさかの初戦敗退に終わった3年夏だったが、都氏にとってはドラフトの結果も「まさか」だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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