監督に酷評されたドラ1「がっかりした」 先輩の野次にパニック…カーブの握りで牽制球

元中日・都裕次郎氏【写真:山口真司】
元中日・都裕次郎氏【写真:山口真司】

中日にドラ1入団した都裕次郎氏が衝撃を受けた1年目の1軍キャンプ

 指揮官の言葉は辛辣だった。1976年ドラフト会議で“全体2番目”で中日に1位指名されて入団した都裕次郎氏は、1年目のキャンプで1軍投手のレベルの高さを思い知らされた。「ボールの切れとか勢いが違うと思いました」。印象に残っているのは、与那嶺要監督が報道陣に発した言葉。「自分のピッチングを見て“がっかりした”というコメントがありました」。高卒ルーキーに対して、いきなり厳しい“評価”だった。

 甲子園出場経験はなく、堅田高校3年夏の滋賀大会は1回戦で敗退。全国的には無名の存在ながら、都氏は予備抽選、本抽選で指名順を決める当時のドラフト会議で2番クジの中日に1位指名された。当然のごとく、注目度は一気にアップしたし、期待も高かった。背番号は28。「左で28番なら江夏(豊)さんですから、そりゃあうれしかったですよ」。球界を代表する左腕・江夏投手の阪神時代と同じ背番号に胸を躍らせた。

 1976年12月の入団発表会見。「緊張していたのであまり覚えていませんが『鈴木孝政さんのように速球で押す投手になりたい』とは言ったと思います」と振り返る。そのオフは藤波行雄外野手のクラウン(現西武)への“トレード拒否騒動”が起きており「自分の入団会見が終わった後に確か『次は藤波問題の会見をはじめます』って球団の人が言っていました」と記憶をたどったが、何とか会見を終えてホッとするとともに、やる気もみなぎっていたことだろう。

 しかし、プロは甘くなかった。1年目は2軍の蒲郡キャンプからスタートだったが「2月20日過ぎくらいに1軍の浜松キャンプに体験じゃないですけど、合流することになったんです」。そこで感じたのが1軍投手との実力差だった。ブルペンでは阪急からトレード移籍の戸田善紀投手と、1974年ドラフト1位右腕・土屋正勝投手に挟まれて投げたが、「横目で見ていても、2人とはボールの勢いとか切れが全然違うなって思いました」。

与那嶺監督は酷評「がっかりした。もっと球が速いと思っていた」

 翌日の新聞で与那嶺監督のコメントを知った。「僕のブルペンでのピッチングを見て『がっかりした。もっと球が速いと思っていたのに』って。さすがにズバッと言うんだなって思いましたね」。いくらドラフト1位とはいえ、高卒ルーキーに対してはいきなり厳しすぎる“評価”だろう。だが、都氏は「与那嶺監督がそう思うのも仕方ないなって思いました」と言う。自身が納得してしまうほど、プロとのレベル差を痛感していたわけだ。

 約1週間の1軍キャンプ体験後、2軍に再合流。「3月の2軍のオープン戦に投げさせてもらいました。オープン戦の初登板は4回1失点くらいで、まずまずだったんですが、その後は……。2軍の近鉄戦では1イニング6失点とかありました。当時ピッチャーだったジャンボ仲根(仲根正広投手、1979年に野手転向)さんにホームランを打たれました。ショックでした。これは大丈夫かと思いました。プロでやっていけるのかなと不安になりました」。

 2軍の練習では権藤博投手コーチに鍛えられたが「投内連係が苦手でしかたなかったですね」と頭をかく。「自分は言われやすいタイプだったので、先輩とかが“失敗するぞ、また失敗するぞ”とかヤジるんですよ。言われるとまたパニックになるわけです。カーブのサインが出ていたから、カーブの握りのまま牽制球を投げたり……。今思うと考えられないですけど、1年目はそんな感じだったんですよねぇ」。

 入団会見で速球派の鈴木孝政投手を目標に掲げた都氏だが「(左のエース)松本(幸行)さんみたいにテクニックで抑えたいと思いますと言ったらよかったのかもしれない。でも、あの時は速球派を目指すのが当たり前。そこまでは言えませんからね」とも話す。“全体2番目”のドラフト1位という看板も重くのしかかる。まさに試練の1年目だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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