打者1人で降板は「自分が情けなかった」 元中日左腕の不運、40年抱える“後悔”

元中日・都裕次郎氏【写真:山口真司】
元中日・都裕次郎氏【写真:山口真司】

都裕次郎氏は1982年に16勝…近藤貞雄監督の“大人の扱い”に感謝

 反省の頂上決戦だった。1982年、近藤貞雄監督率いる中日はセ・リーグを制覇した。その立役者の1人が16勝をマークした左腕・都裕次郎投手だったが、パ・リーグの覇者・西武との日本シリーズではレギュラーシーズン同様の活躍はできなかった。第2戦と第3戦に2試合連続で先発するなど、4試合に登板。先発して打者1人に投げただけで降板した第2戦に関しては「いまだに悔やまれます」と語った。

 1982年シーズンの都氏は16勝5敗、防御率3.13の成績を残して中日優勝に大貢献した。43登板で先発29、リリーフ14。221回1/3を投げたが「自分の場合、投げたその日というのはなかなか寝られなかったんですよね」と明かす。10月16日の大洋戦(横浜)で7回1/3を2失点。16勝目を挙げ、中日の優勝マジックが「1」となった夜は「朝までずーっと寝られなくて、5時くらいに気分転換で(横浜市の)山下公園まで散歩に行きましたよ」と懐かしそうに振り返った。

 近藤監督にも感謝している。「自分は若かったんですけど、大人の扱いをしてもらいました。ピッチングがどうのこうのとか、駄目出しされた記憶もあまりないですね。どっちかというと変に信用されていたというか、買いかぶられていたような気がしました。任せていても大丈夫やろうなみたいな感じでした」。先発、リリーフと酷使された形にはなったが「そんなイメージはありませんでした」とむしろ、やりやすい環境だったようだ。

「ほかに近藤監督といえば、ミーティングがそんなに好きじゃなかったということと、風呂が早いということですかねぇ……。カラスの行水だったんですよ。洗っているのかなと思うほど早かったんです。でも早いといえば、決断力。その早さは天下一品でしたね」。話し出したらキリがないほど、都氏にとって近藤監督は思い出深い指揮官だったわけだが、その恩人に日本一を味わわせることはできなかった。

日本S第2戦に先発も…先頭打者の打球が右足甲を直撃して降板

 1982年10月23日にナゴヤ球場で開幕した西武との日本シリーズに中日は2勝4敗で敗退。都氏は第2戦と第3戦に先発、第5戦と第6戦にはリリーフで登板した。その中で「悔やまれますね」と口にしたのは10月24日の第2戦(ナゴヤ球場)。先発マウンドに上がったものの、初回に先頭打者の西武・石毛宏典内野手の打球が足に当たるアクシデントに見舞われ、わずか6球で降板してしまったことだ。

「右足の甲。直撃でしたね。インコース寄りの真っ直ぐがちょうどバットと重なって、打球が飛んできたのが見えなかったんです。気がついたらドーンと当たっていた。でも、いまだに思うんですけど、その後も投げれば良かったんじゃないかって。ちょっと休めば投げられたと思うんですよ。あの時、自分が行けると言えばよかった。ちょっと気弱になっていました。それはいまだに悔やみます。行けますと言えなかった自分が情けなかったと今でも思いますね」

 移動日を経ての10月26日の第3戦(西武球場)にも都氏は2試合連続で先発したが、1回1/3を2失点で降板。アクシデントによる悪い流れを取り返せなかった。「打撲で足は多少、腫れていましたけど、実際に3戦目は中1日で投げられたわけですから、第2戦だって投げようと思えば投げられたと思うんですよ。結果は一緒だったかもしれませんけど、なんで、あの時に頑張って投げなかったのかってやっぱり思うんですよね」と都氏は唇をかんだ。

 レギュラーシーズンの疲れもあって日本シリーズでは万全の調子でもなかった。「シーズンの終わり頃からけっこういっぱい、いっぱいのところはありました。体がもうひとつ、思うように動かなかった。自信を持って投げられるようなボールでもなかった。だから(第2戦のアクシデント後に)行けますと言えなかったんでしょうけどね」とも話したが、それでも、チームやシリーズの流れを考えても、気力で投げるべきだったと反省しているのだ。

 中日は第1戦、第2戦と連敗。第3戦と第4戦は連勝して2勝2敗のタイに持ち込んだものの第5戦、第6戦と連敗してシリーズ制覇はならなかった。都氏は第5戦に4番手で1回無失点。第6戦は2番手で1回1/3、無失点の内容だったが、チームの勝利にはつながらなかった。「日本シリーズに、いい思い出はないですね」。あれから40年以上が経過したが、また悔しそうに話した。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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