左肩を負傷も手術回避で「痛いところをガンガン」 希望もつかの間…訪れた絶望

元中日・都裕次郎氏【写真:山口真司】
元中日・都裕次郎氏【写真:山口真司】

都裕次郎氏は9年目に左肩痛を発症…LAでジョーブ博士の診察を受けた

“茨の道”に突入した。元中日投手の都裕次郎氏は1985年のプロ9年目から左肩痛に苦しんだ。最初は違和感だったが、時の経過とともに悩ましい状態に陥っていった。米ロサンゼルスでスポーツ医学の名医として知られたフランク・ジョーブ博士の診察も受け、手術を勧められたものの、踏み切れなかった。「逆に肩周りを鍛えたら、どうかと思ったんです。そしたら痛みがなくなったんですよ」。しかし、完治には至らなかった。

 はじまりは1985年1月の自主トレ中での投げ始めでのことだった。「ちょっと、あれって思ったんですけど、まぁ、しばらく休んだ後ってそういう時があるんですよ。投げていくうちになじんで、腕も上がっていくという感じでね。でもあの年はキャンプに入ってもずっと何かおかしいままだったんです」。その時点ではもはや違和感ではなく、痛みもあったそうだ。だが「キャンプ中に病院には行きませんでした。オープン戦とかも痛みをおして投げていた」という。

 そのままシーズンもスタート。都氏は開幕3戦目の4月16日の大洋戦(横浜)に2番手で登板(1回1/3、1失点)するなど、いつものように投げ続けた。4月21日の阪神戦(ナゴヤ球場)からは先発ローテーション入り。延長10回3-3の引き分けに終わった5月2日の大洋戦(ナゴヤ球場)では9回2/3、2失点と力投した。

「そこそこ投げられたんですよね。(試合に)投げたら腕が張るじゃないですか。その張った状態で投げると、痛みがスポンと抜ける時もあったんですよ。でもバッターに向かって気が張っていてアドレナリンが出ている時はいいけど、ちょっと気が緩むのか牽制球を投げる時とかは痛かったですね。抑えたのはたまたま。だましだまし投げた結果でした」。だが、シーズン6登板目となった5月7日の巨人戦(ナゴヤ球場)でとうとう限界となった。

 その試合は敗戦投手になったが、6回2失点。「いや、それも何となく抑えただけです。クロマティにホームランを打たれました。それは覚えています。もう(痛みを)我慢できませんでした」。1軍から離脱し、愛知医大でのリハビリ生活に入った。「いろいろやっていただいて、スタッフの人と強いキャッチボールができるようになった。でもキャッチャーを座らせて投げるようになると、また痛みがぶり返す。その繰り返しでした」。

 都氏はシーズン終盤に1軍復帰。10月6日の広島戦(ナゴヤ球場)に4番手で投げて2回1失点だったが、状態は芳しくなかった。そこでオフにはロサンゼルスでジョーブ博士の診断も受けた。ゲーリー・レーシッチ内野手との契約のために渡米した足木敏郎渉外担当兼通訳に連れていってもらったそうだ。「入団前のゲーリーの家にも行きました。あのロス疑惑があったホテルにも泊りました。うわっ、ここかって思いましたね」。

手術を勧められるも回避…周辺強化に努めた

 ジョーブ博士は手術を勧めたという。「博士が何度もオペレーションどうのこうのって言っていたから、手術しなければいけないのかなという感じで聞いたら(左肩に)骨棘というか突起物があるから、それを除去する手術をやる必要もあるかもしれないって。断言はせず、ちょっと曖昧な感じだったんですよね」。都氏は考えた末に手術回避を決めた。「あの頃は肩の手術とかやる人は少なかったし、成功例もあまりなかったので、やっぱりこれは踏み切れないなって思ったんです」。

 帰国後、都氏は自身の判断で思い切った行動をとった。「逆に肩周りを鍛えたらどうかと思った。鉄アレイとかでね。キャンプの時はそればかりやったんです。そしたら、3月くらいに痛みがなくなったんです。どんどんやっていると麻痺してきて、その勢いで投げた。試合でもそれなりに投げられたんです」。1986年、プロ10年目の都氏は23登板(2先発)で2勝1敗、防御率3.32の成績を残したが、これはそのやり方によっての数字だった。

「一応、トレーナーにもそういうふうにやりますとは言いましたけど、痛いところをさらにガンガンやるなんて、どうかと思うし、今じゃあり得ないですよね。でも、あの時はそれで、そこそこ投げられたのでねぇ……」と都氏は何とも言えない表情で話す。1986年7月31日の大洋戦(ナゴヤ球場)では先発して7回1安打無失点投球も見せた。8月10日の広島戦(広島)では、5番手で2回を無失点に切り抜けてシーズン2勝目をマークした。

「その時は翌年に向けてもめどがつきはじめたくらいの感じだったんですけどね」。左肩痛はその後も都氏につきまとい、結果的には、この2勝目が現役ラスト白星になるのだが、当時は希望の光さえ見え始めていたのだから、想像できるはずもなかった。それも踏まえて、都氏は肩を痛める前の1984年オフの過ごし方を悔やむ。「その年の日米野球で投げた時も肩に変な感じがあったんですけど、投げられたので様子をあまり見なかったのがよくなかったかもしれない」。

 1984年11月13日にナゴヤ球場で行われたオリオールズと中日・巨人連合軍との試合に、都氏は3番手で2回2失点。この時から左肩に違和感がありながら「オフに車の免許を取りに行って、そっちがメインになった。ケアをちょっと怠ったというのがありましたね」という。左肩違和感を引き金にプロ野球人生の流れが変わってしまった都氏。それは、さらにつらい日々へとつながるものとなる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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