長打か確実性か…揺れる心に終止符打った一振り 「初めてバットを短く持った」大舞台
関本賢太郎氏は5年目の2001年に右肩手術…シーズンを棒に振った
野球人生の流れを変えた。元阪神内野手の関本賢太郎氏にとって大きな転機になったのは、プロ7年目の2003年10月27日。ダイエーとの日本シリーズ第7戦(福岡ドーム)だ。「ヒットを狙って、初めてバットを短く持った打席でホームランが出たんです」。ダイエーの左腕・和田毅投手から放った一撃。この結果によって、1軍に定着するため、試合に出続けるための自身の進むべき方向性が定まったという。
関本氏はプロ4年目の2000年10月に待望の1軍初出場を果たしたが、翌2001年は1軍出場なしに終わった。右肩を手術したからだ。2000年1月の自主トレで右足首を脱臼し、それをかばっているうちに、右肩を痛めた。「(2000年は)ずっと痛かったけど、ごまかし、ごまかしでやっていた」。10月の1軍初出場の時も無理していたそうで、オフに右肩を治療。保存療法を選択し、米国フロリダのデトロイト・タイガースのキャンプ施設でリハビリに励んだ。
「投げられなくなったら野球選手が終わりなので、めっちゃリハビリを頑張ったんです。5年目にかける意気込みも、むっちゃありましたからね」。だが、うまくいかなかった。痛みは治まらなかった。「いよいよ最初のキャッチボールの5メートルが投げられなくなって、手術することになった」。そのシーズンを棒に振ることになろうが、他に選択肢がなかった。「手術して可能性があるのなら、すがるしかなかった」。
手術、リハビリを経て関本氏は2001年10月6日の西武とのファーム選手権(松山)に「3番・DH」で復帰した。3打数無安打1三振だったが、今度こそ翌年につなげたいとの思いだった。ここまで怪我で苦しんだこともあって、球団に背番号「64」からの変更を打診した。与えられたのは、かつて、ランディ・バース内野手がつけていた「44」。「こんないい番号をくれるんだなって思いました」。気持ちも奮い立った。
プロ6年目の2002年シーズン、指揮官は星野仙一氏だった。5月8日のヤクルト戦(甲子園)に「2番・遊撃」でスタメン出場。8回にヤクルト・藤井秀悟投手から右中間三塁打を放った。プロ初安打だった。「初出場から2年かかりましたからね。やっと出たって感じでした。試合は負けていましたけど、ベンチに戻ったら星野監督が僕の座っているところまで来て『おめでとう』って握手してくれたのを覚えていますね」。
5月14日の横浜戦(平塚)でプロ初盗塁と初打点、5月15日の横浜戦(横浜)で初の3安打猛打賞、5月26日の中日戦(ナゴヤドーム)では朝倉健太投手からプロ初本塁打を放った。「初ホームランは内容がよくなかった。ワンバンのフォークボールを2回振って、最後はワンバンに近いようなフォークを無茶苦茶すくい上げてホームランにしたような感じでした」。6年目は71試合で打率.254、5本塁打、11打点。まだまだ1軍定着までには至らなかった。
2003年日本S第7戦に先発…鷹・和田から本塁打を放った
星野阪神がリーグ優勝を成し遂げた2003年、プロ7年目の関本氏は36試合で打率269、4本塁打、12打点。6月に右足の内転筋を痛めて離脱するなど、リーグ優勝に貢献はできなかった。そんな中で、出番が来たのがダイエーとの日本シリーズ、3勝3敗で迎えた第7戦だった。「9番・三塁」でスタメン。第1戦から第6戦まで出場なしだった関本氏は大一番での大抜擢に緊張感を漂わせた。3回の第1打席はレフトフライ。打撃の状態はよくなかった。
「7年目でしたからね。プロ平均年数が7年なので、1軍定着するために打率を上げないといけないというところと、ホームランバッターになりたいというところの狭間。ホームランバッターを目指しても、自分のそこまでの成績を見たら、10安打中、1本の確率。100安打で10本しか打てないのなら、きついなぁっていう思いと、だけどホームランバッターにならないといけないという球団の期待もあるしって気持ちが揺れていた時期でした」
その揺れ動く思いを一時封印したのが、日本シリーズ第7戦、5回の第2打席だった。「ひとまず自分のホームランを打ちたいという気持ちを抜きに、この先いつ日本シリーズに出られるかわからないから、人生で初めてヒットを打ちたいという気持ちになったんです」。ここで関本氏は同僚の浜中治外野手のバットを借りた。「じゃあヒットを打つためにどうするかってなった時に、自分の調子も悪いし、浜中のバットで打ってみようかってね」。
それも運命だったのだろう。「浜中のバットを手にした時、短く持ったらちょうどバランスがいいな、じゃあこのバットでヒットを狙ってみようとした打席でホームランが出たんですよ。不思議な感覚でダイヤモンドを回りましたね」。阪神はその試合に敗れて、日本一を逃した。関本氏にとっても悔しい敗戦になったが、大きな収穫を得た。
「7年目が終わって秋季キャンプが始まるまでのちょっとの休みの間に考えました。日本シリーズのスタイルでいけば、ヒットも増えて、狙わなくてもホームランになるのなら願ったりかなったり。自分の方向性を見つけた。これが答えだなってね」。完全なるホームランバッターになる夢は捨てた。バットを短く持って勝負することを決めた。これをきっかけに関本氏の野球人生は変わっていった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)