試合前に吐く選手も…“疑惑の判定”で狂った1年 長嶋茂雄も言葉を濁した開幕戦の悲劇

元ヤクルト・飯田哲也氏【写真:荒川祐史】
元ヤクルト・飯田哲也氏【写真:荒川祐史】

今も語り継がれる…1990年開幕戦での巨人・篠塚の一発

 2024年のプロ野球が3月29日に開幕する。ヤクルト、楽天で計20年の現役生活を送り、盗塁王、ゴールデングラブ賞7度など走攻守3拍子揃ったプレーでファンを魅了した評論家の飯田哲也氏にとっても開幕戦は特別だったと言い、「毎年、緊張しました。心臓が飛び出そうなくらい」と語る。思い出の試合を振り返ってもらった。

 1990年4月7日の巨人戦(東京ドーム)。高卒4年目の飯田氏は、出場機会こそなかったがベンチ入りしていた。ヤクルトが2点リードで迎えた8回1死二塁、巨人・篠塚利夫(現・和典)内野手が放った打球は、右翼ポール際に着弾した。判定はホームラン。これに右翼・柳田浩一、一塁・広沢克己(現・克実)は両手をあげてファウルとアピールした。好投していた内藤尚行投手は両ひざをついた。野村克也監督も猛抗議したものの、判定は覆らなかった。

 映像では、打球はポールの右側を通ったように見えた。ベンチの飯田氏は「ボールの行方は正直、わからなかったです」と語る。「広沢さんからの場所が一番わかりやすかったんじゃないでしょうか。後に映像を見ましたが、解説の長嶋茂雄さんは『微妙なコースですねぇ』としか仰ってませんでしたね。でも、あの頃は審判団が協議しても、ジャッジはまず変わらなかった」。この年からセ・リーグは左右両翼の線審を置かない審判4人制に変更。現在では当たり前のように実施されるリプレー検証はない時代だった。

 追い付かれたヤクルトは延長14回の末、サヨナラ負けを喫した。この年は延長戦も最長15回に拡大。前年までの12回なら引き分けだった。「余計に疲れて、皆がっかりしていました」。2戦目に飯田氏は途中出場も、巨人・木田優夫投手のサヨナラ本塁打で敗れた。野村ヤクルト1年目は過酷な船出となり、シーズン5位に終わった。

開幕初スタメンは「一番緊張」、小早川3連発は「笑っちゃってました」

 6年目の1992年4月4日、本拠地・神宮での阪神戦で、初めて開幕スタメンに名を連ねた。「プロ野球人生で最も緊張しました。日本シリーズでも緊張したことがないのに。レギュラーと控えでは、開幕戦の興奮度が全然違います」。

「1番・中堅」の飯田氏は初回、葛西稔投手から左中間へ二塁打を放った。これを足場に2点を先制し、快勝。飯田氏は二塁打をもう1本放ち4打数2安打と躍動した。このシーズン、飯田氏は125試合に出場し、盗塁王を獲得。ベストナインに初選出された。しかも、ヤクルトは14年ぶりのリーグ制覇。1990年から主力として活躍していたが、「僕はこの年が実質レギュラー1年目だったと思ってます」と懐かしむ。

 1997年4月4日の巨人戦(東京ドーム)では、新たな同僚の活躍に歓声を上げた。広島の主力打者だった小早川毅彦内野手が1996年シーズン後に自由契約に。“再生工場”と呼ばれた野村監督が手を差し伸べ、ヤクルトに入団した。「5番・一塁」で出場し、2回に直球をバックスクリーン、4回にはカーブを右翼席、6回にもシンカーを再び右翼席へ運んだ。衝撃の3連発で、ヤクルトは快勝した。

「笑っちゃってました。『また、行ったよー』って。あれこそサプライズでしょう」と飯田氏は振り返る。相手の斎藤雅樹投手に、チームは前年6連敗。“天敵”だった。自身も苦手意識があり、「僕はスタメンから外されていませんでしたっけ」。実際には「1番・中堅」で出場して5打数2安打1打点だった。この年、ヤクルトはリーグ優勝&日本一に輝いた。

 飯田氏は開幕戦に臨む選手の心境を、自らの体験と照らし合わせて慮る。「キャンプからずーっと練習をしてきて、不安ばかりなんですよ。今年はヒットが打てるかな、とか。試合前が一番きつい。『オエッ、オエッ』と緊張で吐く選手もいましたよ。だけど、プレーボールがかかってしまえば、もう大丈夫となる。僕は試合前のセレモニーとか、早く終わって欲しいと思っていました」。

 さらに「僕は絶対に勝ちたいタイプでした。勝つとチームが勢いに乗るし、雰囲気も良くなる。開幕戦は特別です」と強調した。今年はどんなドラマが待っているのだろうか。

(西村大輔 / Taisuke Nishimura)

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