首脳陣に“騙され”緊急登板 悪夢のデビューで防御率67.50…1軍満喫中に直面した想定外

元阪神・工藤一彦氏【写真:山口真司】
元阪神・工藤一彦氏【写真:山口真司】

工藤一彦氏は1974年ドラフト2位で阪神へ…3年間は2軍暮らしが続いた

 念願のデビューは不本意なものだった。元阪神投手の工藤一彦氏はプロ4年目の1978年8月11日の中日戦(西京極)でプロ初登板を果たしたが、結果は伴わなかった。0-6の6回に3番手でマウンドに上がり、2/3イニング、打者8人に5安打5失点で降板となった。同年はこの1試合だけで防御率67.50。「内容を知らない人はその数字を見て、それならしゃあないって思うだけだろうけどね」。工藤氏はそう言って、無念そうに振り返った。

 土浦日大時代に「高校四天王」の1人として注目された工藤氏は、1974年ドラフト2位で阪神に入団。背番号は「19」に決まった。「18番がエース級だから、その次なのかなって。2位だったけど、ものすごい期待だなって感じたなぁ」。阪神1位の丸善石油・古賀正明投手が入団を拒否しており、2位の工藤氏にさらに注目も集まる。やりがいも感じて1975年の1年目シーズンに臨んだ。

 プロの練習に戸惑うことはなかった。「昔、陸上をやっていたし、自主トレやキャンプでの走ったり、飛んだりというのは全然苦にならなかった」。土浦日大時代にハードな練習を乗り越えただけに自信もあった。ブルペンでもプロのレベルに驚くことはなかったという。「当時、チームで一番球が速いと言われた古沢(憲司)さんの横で投げたけど、俺の方が速かったと思う。山本哲也(ブルペン)コーチからは『古沢とはボールの高さが違うぞ』って言われたけどね」。

 プロでも何とかやっていける手応えはあった。「そう思えた。思えたなぁ。だけどなぁ……」。1軍から声がかかることは全くなかった。「あの頃の俺たちは練習、練習の毎日。朝早くから練習して、試合が終わったら風呂に入って、今度は1軍の試合を5回まで観戦。寮に帰ったら夜の9時とかになって、門限までちょっとしかないし、門限を過ぎたら部屋で寝ないといけないし、次の日はまた朝が早い。その繰り返しだった」。

 入団から3年間はそんな2軍暮らしが続いた。「あの時の(1軍)監督は吉田(義男)さんだったけど、相性が悪かったかもしれないな」と工藤氏は苦笑する。ようやく1軍昇格の話が来たのは後藤次男監督になった1978年、プロ4年目の8月だった。「西京極、あの時も思い出すわ。5失点だったな」。8月11日の中日戦。0-6の6回に3番手でマウンドに上がったが、結果は打者8人に5安打5失点。2/3イニングで交代となった。

「悪いけど、ブルペンに行ってくれ」突然の指令…ほぼ準備なしの状況で初登板

 この結果について工藤氏はこう話す。「俺としては打たれた記憶がないんだよね。5安打されたといっても、ヒットらしいヒットはなかったからね。間にポーンといったとか、そんな感じ。記録だけ見たら、そうは思わないだろうけど、内容とかを見たら違うんだよ」。そんな状況で失点を重ねたのは運がなかったということだろう。それが記念すべき初マウンドだっただけに、なおさら。何とも歯がゆい思い出にもなっているわけだ。

 工藤氏はこんなことも明かした。「西京極のあの日に俺は1軍に上がったわけだけど、練習が終わった後に『今日は投げることはないぞ』と言われていたんだよ。だから『今日は食ってええで』って。おいしいものがいっぱいあって試合前に食べられるやん。そういうのは2軍にはなかったし、そう言われたら、いっぱい食べるやん。『食べたら観戦や、声出しや』って言われてね。そしたら、ピッチャーが打たれちゃってさ……」。

 試合は阪神先発の上田次郎投手が中日のジーン・マーチン外野手に一発を浴びるなど、3回1/3を5失点で降板。2番手の長谷川勉投手も、高木守道内野手にソロアーチを被弾した。阪神打線は中日先発・戸田善紀投手の前に凡打の山を築いていた。そんな中で急きょ、工藤氏の出番となった。試合前に「登板はない」と告げられていただけに、驚いたのは言うまでもない。

「『工藤、悪いけど、ブルペンに行ってくれ』って急に言われたんだよね。あの時のピッチングコーチは渡辺省三さんだった。それで、ブルペンに行ったらすぐや。こっちは準備運動もまともにしていない状態で、もうアナウンスしているんだよ。『ピッチャー・工藤』ってね。もう行くしかない。そんな状況だった。あれがデビュー戦だったんだよなぁ……」。4年目の工藤氏の1軍登板はこの1試合だけ。そして、これをバネにして翌年以降の飛躍につなげることになる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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