「無茶苦茶な使われ方」で“逃した車” 先発翌日に登板指令…掴めなかったあと1勝
工藤一彦氏の愛称は「ぞうさん」…高校時代から呼ばれるようになった
あと1勝が遠かった。元阪神投手の工藤一彦氏はプロ5年目の1979年に7勝をマークして1軍に定着したが、勝ち星には決して恵まれなかった。好投しても打線の援護がなかったり、リリーフが打たれて勝利投手の権利を失ったりの“不運パターン”も多かった。7年目の1981年は9月2日に9勝目を挙げ、知人の会社社長から「10勝したら車をプレゼントする」と言われながら、2桁勝利をつかめなかった。
工藤氏のニックネームは「ぞうさん」だ。「名付け親は高校野球の時のファンの人かな。(土浦日大のエースとして1974年の)春の選抜に出た時に『体が大きくて、かわいい。ぞうさんみたい』って言われてね。それから象の人形とかも送られるようになって、みんなにも『ぞうさん』と呼ばれるようになった。プロに入ってもその延長。先輩は俺のことを『ぞう』と言うし、コーチまで『ぞうさん』ってね。どこに行ってもそうなったんだよね」。
誰からも親しまれた「ぞうさん」はプロ5年目から阪神の主力投手として、先発もリリーフもどちらもパワフルにこなしていった。先発の中4日、中3日も珍しくなかった時代とはいえ、その中でも黙々と投げていた1人だ。同時にそれがあまり報われなかった1人でもある。6年目の1980年は5勝10敗。8月23日の大洋戦(横浜)に3回途中から登板し、6回2/3を無失点で5勝目を挙げたが、そこから調子も落とし、勝ち星に見放された。
「あの頃は先発、中継ぎ、抑えとか分業制というのがしっかり決まってなかったからね。先発で投げたら、次の日にまた2回か3回中継ぎで行ってくれとか、それから2日くらい経ったらまた先発行ってくれとかね。今思えば、無茶苦茶な使われ方。そりゃあ、なかなか結果も出ないよね。だって、自分のペースでは調整できなかったもん。いつも未調整。防御率も悪くなるし、打たれるし、ひどい年だったなぁ」。そう言って工藤氏は思わず顔をしかめた。
10勝したら車のプレゼントも…“王手”をかけてから続いた足踏み
その年のシーズン最終登板となった10月12日の中日戦(ナゴヤ球場)では中日・星野仙一投手からプロ1号本塁打を放ったが、肝心のピッチングは3回6失点で降板。「ホームランはライトにね。星野さんは『工藤に打たれたら、俺もピッチャー終わりや』って言っていたそうだけどね」と振り返ったが、自身の勝ちにつながらなかったのだから、当然のごとく口調は重かった。
そんな工藤氏が、さらに悔しそうに振り返るのが7年目の1981年シーズンだ。9月2日の中日戦(甲子園)に3失点完投で9勝目を挙げ、初の2桁勝利にリーチ。「あの時、知り合いの社長から『10勝したらお前に車をやるわ』って言われて、みんなが『もう、あとはタイヤをつけるだけやんか』って言っていたのに、どんでん返しで、そこから1勝もできなかった。10勝目がかかってから俺は先発しても、ほとんどKOなしだったんだけどね」。
結局、32登板、9勝9敗、防御率3.79だった。工藤氏にしてみれば、信じられないくらいの勝ち運のなさだった。この年は6月19日の大洋戦(甲子園)でプロ初完封勝利をマークしたが、10勝ならずの印象があまりにも強烈すぎるのだろう。「初完封はあまり覚えていないんだよね」と苦笑するほどだ。チームのために「ぞうさん、頼む」と言われれば、マウンドに上がり続けた工藤氏は、そんな経験も経て、ここから虎のエース格になっていった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)