「誰のおかげで給料もらっている」 白星先行で減額…球団から虎右腕へ“悲痛”な言葉
工藤一彦氏はOP戦で右親指を亀裂骨折…開幕投手は幻となった
元阪神投手の工藤一彦氏にとって、プロ10年目の1984年は無念のシーズンだった。2年連続2桁勝利をマークして虎のエースとなった右腕は、気合を入れ直して春のキャンプから調整に励んだが、オープン戦で右手親指負傷のアクシデントに見舞われた。前年に工藤氏とともにチームトップの13勝をマークした小林繁投手が引退。投手陣を引っ張る立場にもなり、開幕投手にも決まっていたが、キャンセルするしかなかったという。
2年連続2桁勝利を挙げながら、年俸はわずか100万円アップの1900万円(金額は推定)。工藤氏にしてみれば、それは、むなしすぎる“結果”だったが、節目のプロ10年目に向けて、懸命に気持ちを切り替えた。恩人であり、師匠でもあり、兄貴のようでもあった小林氏が1983年限りで引退したことで、いよいよ工藤氏が投手陣をまとめなければならないし、安藤統男監督からは開幕投手の指名も受けていた。
「安藤さんに言われて、開幕投手が決まっていたんだけど、怪我でなくなってしまったんだよね……」。キャンプを順調に終えた後、オープン戦でまさかが起きた。「(3月11日の)平和台での巨人戦だった。投げる必要がなかったのに『行ってくれ』って言われて……。バッターは松本(匡史)さん。ピッチャーゴロが来てグラブの中でボールが弾んで、右手の親指付近にバーンや。血が出ていてこれはアカンなって……」
診断結果は「亀裂骨折」だった。「爪も剥がれていたのも覚えているわ。それで、もう開幕投手は無理となって、野村(収)さんに代わったんだよ」。その年の開幕戦の相手は巨人。敵地・後楽園球場での伝統の一戦で、江川卓投手とのエース対決になるはずだったが、それも幻に終わった。それでも工藤氏は投手陣のリーダー格として懸命に早期復帰を目指した。開幕4戦目の4月10日の大洋戦(甲子園)にリリーフ登板し、1回1/3を無失点だった。
「無理して間に合わせようとして投げたんだったかなぁ。あまり記憶にないけどね」と話したが、そこからしばらく短いイニングのリリーフをこなし、4月24日の広島戦(甲子園)では先発に復帰。5月6日のヤクルト戦(甲子園)では、6回1/3を4失点でシーズン1勝目を手にした。だが、あまりにも急ピッチで復帰したのが影響したのだろう。コンディションは万全ではなく、6月の1か月間は2軍での再調整を余儀なくされた。
7勝5敗も年俸はダウン提示「上がってもおかしくないと思った」
7月4日の大洋戦(甲子園)で復帰し、5回2/3を2失点で2勝目。そこからは先発で5連勝と本来の投球を取り戻した。そのうち7月16日の広島戦(広島)からは3試合連続完投、8月6日の大洋戦(横浜)では完封勝利も記録した。しかし、工藤氏は「そういうところは球団に見てもらえなかったと思うんだよね。寂しい限りだったよ」と、また表情を曇らせた。
10年目の成績は25登板、7勝5敗、防御率5.10。開幕前の怪我と、立場的な責任感もあって無理した前半戦がたたって、3年連続2桁勝利はならなかった。それでも工藤氏にしてみれば、やれることは精一杯やったつもりだった。しかし、契約更改で球団から提示された金額は「ダウンだった」と悔しそうに明かした。推定年俸は30万円ダウンの1870万円だった。
「7勝でも勝ち星が上じゃない。亀裂骨折の影響もあったから、ゲーム数は少なくなるやん。そういうのを考えたら、俺は上がってもおかしくないと思ったんだけど『お前、誰のおかげで給料もらっているんだ』って言われてさぁ……。俺は言ったんだよ。『どうしたら給料が上がるんですか。勝ち星ですか、防御率ですか』ってね。その答えは返ってこなかったんだけどね」
投手陣全体のことも考えての抵抗でもあったが、結局は押し切られたという。もちろん、すべて終わったことであり、どうすることもできない。だが、その後、一流選手の年俸はどんどん高騰していっただけに、時代が違えば、どうなっていただろうか……。そんな中でも当時の工藤氏はグラウンドに出れば、再び気持ちを新たに戦い続けた。翌1985年は優勝を味わう。阪神V戦士のひとりになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)