1試合10四球→深夜2時起きの猛練習 弱小野球部の悲哀…強豪校に「ほとんど断られた」

元中日・田尾安志氏【写真:山口真司】
元中日・田尾安志氏【写真:山口真司】

田尾安志氏が所属の大阪・泉尾高で1年夏に大敗も…徐々にレベルアップ

 屈辱がバネになった。中日などで活躍した元外野手の田尾安志氏(野球評論家)は1969年に大阪府立泉尾(いずお)高校に進学したが、野球部のレベルはかなり低かった。「強いチームには練習試合を申し込んでもほとんど断られた」という。それが弱小チームの現実だったが、田尾氏には逆にエネルギーになった。「強豪校とは公式戦では当たる可能性がある。その時に勝てるようなチームにしたい」。明確な目標ができた。

 2年生2人、3年生3人の泉尾高野球部に、田尾氏ら1年生は20人加わった。「すぐに半分はやめたけど、10人は残った。全部で15人のチームになった」。もっとも1年生10人のうち、半分は中学時代に野球をやっていない初心者みたいなもの。人数が足りただけで、実力は伴っていなかった。1年夏は1回戦で上宮に0-17で大敗。「あの頃の上宮はそんなに強いって言われるほどのチームではなかったんですけどね」。

 その試合には田尾氏もリリーフでマウンドに上がったが「前にボールが飛ぶと、ほとんどヒットになってしまうような、そういう守備だったんでね」。自身の制球難も重なり、どうにもならなかった。だが、泉尾野球部の面々はここからレベルアップしていく。「エラーした選手が『ちょっとノックを受ける』とか言って200本ノックを受けるとか、みんな自主的にやるようになった。練習は自分たちでやっているような感じで青春ドラマみたいなチームでしたね」。

 1年秋からエースになった田尾氏も必死に取り組んだ。「僕はいつも朝練をやっていました。練習が終わって家に帰ると風呂に入って、飯食って、すぐ寝るんです。そして夜中の2時頃に起きて勉強して、6時すぎには家を出て、早めに学校に行って自分で練習していました」。2年生の時には刺激を受けたアンダースロー右腕もいた。「ひとつ上の此花商の金城(基康=元広島、南海、巨人)さん。あの人とはよく試合をしたんですよ」。

投手としての成長に繋がったアンダースロー右腕の存在

 いつも僅差の戦いだったという。「お互いになかなか点を取られずに勝ったり負けたりで、勝つ時はだいたい1-0。やっぱり金城さんがあの時期では一番印象に残っているピッチャーですね。ボールがすごく伸びるんですよ。柔軟体操でもペタッとつくし、これは僕らのレベルとは違うなぁと思いましたね」。自分よりも上を行くライバルの存在は投手としての成長にもつながった。持ち前の負けん気にも火がついた。

 1970年の2年夏は1回戦で阿倍野に12-4で勝利。2回戦で生野工に1-3で敗れたが、田尾氏もチームも初戦大敗の1年前からは明らかに成長していた。「ちょっとは強くなっていったんですよね。とても勝てそうになかった、あのチームがね」。その頃から手応えを感じ始めていた。練習試合は相変わらず強豪チームとはできなかったが、試合に応じてくれるチームにはだんだん負けなくなってきたという。

「僕のコントロールも少し良くなってきたんですよ。それまでは1試合に10個くらい四球を出していましたが、それがマシになって、点を取られなくなってきたんです」。四球連発による自滅が少なくなった。地道な朝練効果でもあったのだろう。そして1971年の高校3年の夏。“見返しパワー”を爆発させる時がやってきた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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