逆指名入団も「敵わない」 22歳が味わった“プロの壁”…2年目に訪れた転向打診

西武時代の高木大成氏【写真:産経新聞社】
西武時代の高木大成氏【写真:産経新聞社】

高木大成氏は逆指名で幼少期からのファンだった西武に入団した

 慶大時代に東京六大学リーグで3度ベストナインに輝くなど、強肩強打でプロ注目の存在だった高木大成氏は1995年に西武を逆指名。ドラフト1位で入団を果たした。西武で10年間プレーし「レオのプリンス」「レオの貴公子」の愛称で親しまれたが、プロ初の春季キャンプでは「違いを見せつけられた」と、いきなり“現実”を突きつけられた。

 両親が福岡県出身で西武の前身、西鉄ライオンズが本拠地としていた影響でライオンズファン。自身は東京・八王子市出身で、西武ライオンズの本拠地が近いこともあって、幼少期から西武球場に足を運んでいた。慶大時代には西武を含む複数の球団が獲得へ興味を示していたが、「打者ではなく捕手として評価してくださり、私自身もファンだった」のが西武を選んだ理由だった。

 だが、当時の西武の捕手には伊東勤が君臨していた。1980~1990年代の西武黄金期を支え、リーグ優勝14回、日本一8回に貢献。2017年に野球殿堂入りを果たす名捕手だった。高木氏の1年目、伊東は34歳を迎えるベテランだったが、まだまだ“健在”だった。

「いきなり春のキャンプで違いを見せつけられました。勝てるのは若さだけかと思っていたけど、伊東さんの方が動けるし、投げる球の質、精度は高い。体も大きくて、強い。全てにおいて学生から上がりたての私よりも1ランクどころか3ランクくらい上でした」

 伊東の技術には驚きの連続だった。「なんでこんな速い球、切れのある変化球を気持よく捕れるんだろう」。技術を見て盗もうと必死になったが、見えてくるのはレベルの高さばかり。学生時代とは違ってシーズン中はほぼ毎日試合がある。「パフォーマンスを低下させない体力、技術も凄かったです」。

西武でプレーした高木大成氏(株式会社埼玉西武ライオンズ事業部部長)【写真:湯浅大】
西武でプレーした高木大成氏(株式会社埼玉西武ライオンズ事業部部長)【写真:湯浅大】

2年目の5月に東尾監督から一塁転向を打診され「そういう道しかないのかなと」

 高木氏にとって忘れられない記憶がある。この年に16勝を挙げるなどエースとして活躍した西口文也(現西武2軍監督)とバッテリーを組んだ時のことだ。決め球で要求したスライダーを捕球できずに振り逃げでの出塁を許したという。空振りさせた投手のナイスボールを後逸するのは捕手としては屈辱でもあった。
 
「空振り三振を取りに行く時のスライダーが、カウントを取りに行く時と変化、球威ともに全然違ったんです。力強く縦に落ちた。私は全然、そんなスライダーを知らなかった。キャンプでも見せなかった。西口さんが三振を取りに行く時にしか投げない、本気のスライダーだったんです。教えてよって感じでした(笑)」

 捕手として毎日が修行であり、経験だったが、持ち前の打撃センスで1年目は80試合(捕手で59試合)に出場。打率.278、4本塁打24打点を残した。迎えた2年目、1997年5月の福岡遠征中、東尾修監督の部屋に突然呼び出された。

「2軍に落とされるのかな」。不安がよぎる中、伝えられたのは一塁手への転向だった。高校、大学と捕手として活躍し、こだわりはあったが、その場で「やります」と伝えた。

「選手である以上はレギュラーを取りたい気持ちがあった。伊東さんには敵わないし、毎日キャッチャーで出る体力もないと自分でも感じていました。悩みましたが、そういう道しかないのかなと」

 その日の試合前から同僚の鈴木健に借りたファーストミットで一塁手の練習を始めた。同年、130試合に出場しキャリアハイの打率.295を残すなど、7本塁打64打点と活躍。ゴールデングラブ賞も受賞した。「ファーストミットはそのまま健さんが譲ってくれました。『いいよ、あげるよ』って(笑)」。レオのプリンスは一塁手としてプロでの活路を見出した。

(湯浅大 / Dai Yuasa)

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