プロ入り熱望も「お前みたいな奴が通用するか」 阪神同期に触発も…不足していた売り物

取材に応じた元ロッテ・藤田宗一氏【写真:片倉尚文】
取材に応じた元ロッテ・藤田宗一氏【写真:片倉尚文】

藤田宗一氏は島原中央卒業後、西濃運輸で7年間プレーした

 ロッテ、巨人、ソフトバンクでリリーフ一筋600試合に登板した藤田宗一氏は、長崎県の島原中央高校を卒業すると、社会人野球「西濃運輸(岐阜県大垣市)」に7年間在籍した。当初は別のチームに進む予定だったという。

 藤田氏は、鳶(とび)職人だった父・繁和さんに「後を継げ」と言われていた。甲子園の夢が破れた高3の夏休み、京都の実家に戻り手伝ってはみたものの、「梁の上とかを歩くと怖い。俺には無理や」と感じた。その頃に社会人のいすゞ自動車から声が掛かった。父も「じゃあ、3年頑張っていいぞ」と承諾した。

 島原中央には藤田氏との2枚看板で、エース番号「1」を背負った武藤幸司氏(現西武球団・査定チーフ)もいた。西濃運輸の監督が武藤氏を視察に長崎へ足を運んだ。すると、高校の監督が「お前もピッチングをしろ」。武藤氏が目当てで、自らの進路も内定済み。気持ちは乗らず、渋々応じた。「武藤の隣で投げたのですが、西濃の監督さんは僕のことを全く見向きもしない。だからパパパと放って、すぐに止めて帰りました」。

 ところが数日後。高校の監督が「お前、西濃に行くから」。事態が飲み込めない藤田氏が「ええーっ、僕は武藤と一緒には行かないですよ」と懸命に返すも、「いすゞは、もう断った」と取り付く島もなかった。島原中央は夏の県大会1回戦で創成館に4-0で勝利。藤田氏が完封した。「その情報が西濃側に伝わっていたのでしょう」。

 自分の意思は置き去りにされて入社した西濃運輸は、社会人最大イベントの都市対抗に出場するのが当たり前の強豪だった。「お昼まで社業で、そこから夜暗くなるまでが練習。それが予選で負けたら定時の午後5時過ぎまで仕事。練習量が減るので出るか出ないかで大違いなんですよ」。本大会進出なら活躍度で3ランクに評価され、最高10万円前後の手当てが付く。出場を逸しても他の会社の補強選手になれば、そのチームから20万円程度が支給された。高校時代の上下関係とは、また異なる厳しさを実感した。

同期のプロ入りに発奮…大谷翔平ばりの“スイーパー”会得して打者を圧倒

 藤田氏がプロ野球を意識し始めたのは、同じ高卒で同期入社の中ノ瀬幸泰投手が1995年ドラフトで阪神を逆指名し、2位で入団してからだ。共に汗を流した間柄で、力量はわかる。「アイツが行けるのなら、俺も行けるんちゃうかな」。心にいったん灯った火は消えない。翌年には、会社を辞めてプロの入団テストに挑戦する計画を信頼を寄せる先輩たちに打ち明けた。後押しされると思いきや、「お前みたいなヤツがプロに行っても通用するか!」と激怒された。

 猛反対には、具体的な理由があった。藤田氏が好素材なのは疑いなかった。それでも、まだ売り物が不足していた。「先輩からは『中ノ瀬はフォークでプロに行った。だから藤田も何か1球、これというボールを作れ。結果を出したら、プロの方から勝手に獲得の話が来るんじゃ』と指摘して頂いた。僕もフォークを投げていたんですけど、それとは違う球種は何かないかなと考えた。出した答えが『スライダーを磨く』でした」。

 自分だけでボールの握り、投げ方等を試行錯誤し、納得のいく変化、キレを手に入れた。「キュッというより、ギューンという感じ。それを覚えてからは、真剣に投げたら打者の右、左に関係なく抑えられるようになったんです」。当時の社会人は金属バットが使用されていた。大量リードでも大逆転が簡単に起きる乱打戦が多かったが、藤田氏は絶対の自信をつかんでいた。

 1996年夏の都市対抗では、「昭和コンクリート」の補強選手に抜擢されて登板。同年秋の日本選手権で、西濃運輸は準優勝した。藤田氏は1回戦から決勝まで全5試合にリリーフ登板し、18イニングを投げ防御率1.00。無双投球で敢闘賞に輝いた。翌1997年の都市対抗でも西濃運輸のベスト8進出に貢献。その年の秋、ロッテからドラフト3位指名を受け、念願のプロ入りが実現した。

 藤田氏は最近になって、気付いたことがある。ドジャース・大谷翔平選手が投じる変化球、大きく鋭く横滑りする「スイーパー」。映像に目を凝らすと「ボールの持ち方、縫い目への指の掛け方が自分のスライダーと同じ」ではないか。「僕は大谷君より、かなり昔から投げていたんですね」と嬉しそうに笑った。

(西村大輔 / Taisuke Nishimura)

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