“敵に塩を送った”ラミレス 阪神で47HR…ブラゼルの未練「先生を負かせたかった」
甲子園を本拠地にシーズン47本塁打…チームの歴史に名を残したブラゼル氏
NPBで通算133本塁打を放ったクレイグ・ブラゼル氏が10年ぶりに来日し、Full-Countのインタビューに応じた。2009年5月、阪神と契約して2度目の来日が決定。「阪神ファンはクレイジーだからね」。本塁打王を争い、ファンから愛される4年間となったが、成功の裏には“敵”でもある師匠がいた。【取材協力・一般社団法人日本プロ野球外国人OB選手会】
「日本に戻ることは正直不安だったんだ」。西武に所属した2008年のシーズン最終戦で頭部死球をうけ、半年間は後遺症に悩まされた。2009年は米独立リーグに所属しており、死球の状態を確認した阪神が獲得を決めた。当時の阪神は、新助っ人のケビン・メンチ外野手が不振。前年に日本で27本塁打を放っていたブラゼルに白羽の矢が立った。「甲子園は広い球場だし、敵としてプレーしたときはファンからの威圧感を感じたよね」とニヤリと笑う。
熱狂的なファンの期待に、見事応えて見せた。同年は82試合に出場して打率.291、16本塁打49打点の成績を残すと、翌2010年には47本塁打をマーク。巨人のアレックス・ラミレス外野手(49本)と熾烈なタイトル争いを演じた。西武時代よりも三振数が激減し、打率も上昇。その裏には“ライバル”からのアドバイスがあった。
引っ張って豪快なアーチを放つだけでなく、阪神時代には、逆方向への打球が急増。外角低めを軽く流し打ちするなど、軽打も目につくようになったが、これはラミレス氏の助言だった。「彼は常に協力的でいてくれた。1番のアドバイスは『逆方向への打球を増やせば、内角への球が増えて、君が望むボールが来る。だから、逆方向にアジャストしろ』ということでした」。ライバル球団の主砲という立ち位置でも、同じ日本で戦う“助っ人”としては仲間だった。
日本で活躍する助っ人の“条件”とは
特徴的なオープンスタンスから分かるように、ブラゼル氏は内角が得意。しかし日本の投手は制球良く外角を出し入れするため、自分の得意な内角への球を投げさせるためにも、外角の攻略は重要だった。「大半の外国人選手はボールを引っ張りますが、相手に引っ張るだけのバッターではないと思わせることが大事なんだ。逆方向への打球を増やせば、成功する確率が高まる」。
2010年は甲子園で21本の本塁打をマーク。同年のバース以来となる本塁打王にも期待がかかったが、ラミレスに2本及ばなかった。「獲得したかった。残念だったね、生徒が先生(ラミレス)を負かせてみたかったよね」。
同年はマット・マートン外野手が来日1年目で、打率.349、当時のシーズン最多となる214安打をマークした。マートンはベンチでノートを取ることで有名で、日本の野球に見事に適応していた。
異国で活躍する助っ人の条件についてブラゼル氏は「米国の野球を忘れること。そして、日本のやり方をリスペクトして、スタイルに順応することです」と語る。「私の周りにはマユミさん、ワダさん、カタオカさんなど優秀なコーチ(や監督)がついていました。聞く耳を持つことも重要です」。日本の野球を学ぼうとする姿勢が生んだ、47発のアーチだった。
(上野明洸 / Akihiro Ueno)