ドラ1“匂わせ”の中日に「頭に来た」 2位でも呼ばれず…選ばれた「行きたくない球団」
白武佳久氏は1982年ドラフトで広島から2位指名を受けた
思わぬ結果だった。1982年11月25日、東京・飯田橋ホテルグランドパレスで開催されたドラフト会議で、日体大・白武佳久投手(現・広島スカウト統括部長)は広島から2位指名された。「どこから指名されても、何位でもプロに行くつもりでした」と言うが、広島は予想外だった。「できれば行きたくない方の球団でした」。一方で本命視していたのは中日。「1位もあるように言われていたので、なんやと思いましたよ」と明かした。
白武氏は日体大で2年秋、3年春、秋の首都大学リーグ優勝に主力投手として貢献。3年時には日米大学野球の日本代表メンバーにも選出されるなど、実績を残した。プロからも注目を集め、広島が2位で指名したが「ほとんどの球団のスカウトの方と会ったと思いますが、カープは覚えがなかったんですよね。僕を獲ってくれた(広島スカウトの)苑田(聡彦)さんは行ったと言われるんですけど、一緒にご飯を食べたとかはなかったですね」。
子どもの頃から巨人ファン。「そりゃあ(出身の)長崎では巨人戦しか映りませんから、やはりそうなりますよ。(大学時代に対戦した東海大の)原(辰徳)さんが巨人に入った時もうれしかったですからね。でも巨人に行きたくはなかったです。巨人じゃ投げられないと思ったんでね」。そしてもうひとつ「広島も投手王国だったから行きたくない球団でした。いろいろメンバーを調べて自分が活躍しようと思ったら巨人と広島は無理だろうなって考えていたんです」。
その「行きたくない球団」の広島からの2位指名。「もちろん、指名していただいて、ありがたく行かせてもらおうと思いましたよ。でも、多分投げられないだろうなぁっても思っていました」と白武氏は当時の気持ちを正直に明かした。同時にふつふつとこみあげてきたのが中日への怒りだった。「中日のスカウトの方が1位もって言われていたので、もう中日とばかり思っていたんですよ。そしたら……」。
本命視していた中日から指名なし「絶対負けんぞと思った」
中日は立教大の左腕・野口裕美投手を3球団競合の1位入札。クジで西武に敗れての外れ1位で、鹿児島鉄道管理局の右腕・鹿島忠投手を指名した。さらに広島が白武氏を入札した2位でも、中日は松下電器の右腕・岡本光投手を4球団競合で指名した(交渉権獲得は巨人)。1位どころか、2位でもなかった中日の動きには「頭に来た」という。「中日には絶対負けんぞ、という気持ちになりました。それもよく覚えていますよ」。
ドラフトイヤーだった1982年の大学4年シーズンに白武氏は体調を崩し、春、秋連続で首都大学リーグのMVPに輝いた3年時のような活躍ができなかった。それでも多くのプロスカウトが熱心に足を運んでくれたそうだが「4年の成績が悪かったので、もしかしたら、プロから指名されないかもというのもありました」と不安ゼロではなく、その時は社会人野球の三菱自動車川崎に進むことも決めていた。
そんな中、中日が1位指名の可能性を示してくれたのだから、その気にもなったのだろう。「巨人や広島に比べたら、中日の方が(プロで)チャンスがあるような気もしたんです」。それだけに中日に指名回避されたドラフトの結果は、白武氏にとってはより悔しいものだった。それがまた投手王国の球団でプロ人生を歩む上での発奮材料にもなったわけだ。
背番号は、かつての広島エース・長谷川良平投手もつけていた「18」をもらった。「たまたまでしょうけどね。それまで18番だった福士(敬章)さんが退団して入れ替わりになったのでね」と話すが、うれしくないわけがない。期待の大きさを感じ取り、やる気になった。投手陣のメンバーを改めて見れば、苦しい争いになるのはわかりきっているが、指名された当初の「たぶん投げられないだろうなぁ」の後ろ向きな考えも必死に拭い去った。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)