巨人で好発進「左ウチワですよ」 気持ち緩んで状況一変…引退決意「もうボコボコ」
金石昭人氏は巨人で開幕3戦で2Sも心身ともに限界、現役引退を決意した
叔父さんの愛情に育まれた野球人生だった。3球団で通算72勝80セーブをマークした野球解説者の金石昭人氏は、入団テストを経て1998年に巨人に移籍した。抑えとして最高のスタートを切ったものの、心身ともに限界に達して引退を決意。「未練はひとかけらもありません」。ドラフト外で広島入りし、日本ハム、最後は巨人で20年間の現役生活を全うした。
1998年4月3日、ヤクルトとの開幕戦。金石氏は神宮球場のブルペンで、PL学園(大阪)の後輩でもある入来祐作投手(DeNA2軍チーフ投手コーチ)と一緒に待機していた。先発で、こちらもPLの後輩・桑田真澄投手(巨人2軍監督)が粘り強く踏ん張り、6-4で迎えた9回裏2死満塁。相手はしぶとい辻発彦内野手が代打で登場した。
長嶋茂雄監督(巨人終身名誉監督)がリリーフを告げる。「ピッチャー、金石」。百戦錬磨の37歳とはいえ巨人1年目。「なぜか僕を指名して下さったんですよね。『えっ、ワシか』と驚きましたけど」。197センチの長身右腕は最大の武器、フォークで空振り三振に仕留めた。開幕3戦目も登板し、早くも2セーブ目。順風満帆のはずだった。
しかし、結果的にこれがプロ最後のセーブとなる。冗談を交えつつ、振り返る。「チームのスタート3試合で2セーブでしょ。ほっとしました。そりゃあ、もう左うちわですよ(笑)。自信を持ちました。でも、そこは甘かった。ほっとし過ぎちゃって気持ちが緩んでしまった。やっぱり気持ちを切っちゃ駄目ですね。次からは、もうボコボコに打たれました」。
体も悲鳴を上げていた。巨人の入団テストに合格するため、前年12月からハイペースで仕上げた反動がやって来た。「体がもう“シーズンオフ”になっていました。プロ野球のシーズンというのは、選手にとっては開幕から大体5か月から6か月なんですよ。あの年の僕は、逆算すると前年末から4月で半年近く。腰が痛くなったり、足が痛くなったり……。切れていた気持ちの方も、もう戻らなくなっていました」。
押し出し四球で「もう終わったな」、長嶋監督に報告すると「就職の方はいいな」
引退を覚悟した瞬間は4月29日の中日戦(ナゴヤドーム)。5番手での7回1死満塁で、代打の愛甲猛内野手に押し出し四球を与えた。「まず押し出しなんかしない自分が……。『あー、こりゃもう終わったな』と。もうマウンドに行くのが怖くなっていましたね」。
ラストシーズンも後半。長嶋監督に報告に赴いた。監督室をノックする。「おっ、どうしたんだ?」と指揮官。神妙な表情で「僕、今季限りで引退しようと思います」と切り出した。すると「おー、そうか」。続けて「金石君はいろんな人を知っているから、じゃあ就職の方はいいな」。金石氏は内心「おいおい、ちょっと待って下さいよ。コーチとかの打診は頂けないのかな?」と考えたそうだが、言える訳がない。「『ハイ、わかりました。お世話になりました』で終わりました(笑)」。
金石氏は引退後の2000年、元バドミントン五輪代表選手の陣内貴美子さんと結婚した。その挙式で、宴もたけなわ。挨拶に相応しいのは、プロ野球最多400勝投手の伯父・金田正一氏(元ロッテ監督)をおいて他にいない。ところが、明朗快活な伯父の様子がいつもとは違う。観念したように登壇した。
「こんなに大勢の人に祝ってもらって、ありがとう」。そして「これを妹に見せてやりたかった……。春子が生きていたら……」。
金石氏の母で、正一氏の妹・春子さんは、金石氏の小学生時代に癌で早世していた。「伯父さんは『絶対に泣くから、ワシにスピーチをさせるな』って仰ってたんですけどね。周囲のみんなに押されて、話をしてくれました。勝負事には強い人なのですが、感情には弱い。凄く家族思いでしたから」。
金石氏は野球解説者と並行し、都内で寿司とお好み焼きの店舗を経営している。キャスターも務める貴美子さん共々多忙ながら、夫妻は仕事が済めば必ず接客に訪れる。人との触れ合いを何よりも大切にする金田ファミリーの系譜は受け継がれている。
“カネやん”の愛称で親しまれた伯父は、2019年に亡くなった。
「もう『感謝』『ありがとうございました』の言葉しかないですよ。少年時代のキャッチボールをきっかけに野球をやらせて頂いた。高校ではPL、プロではカープに入れて頂きました。金田正一なくして今の僕はないのです」
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)