激痛で記憶なし「私生活が普通にできるように」 新制度に葛藤…牛島和彦、32歳で決断「やめます」

中日、ロッテでプレーした牛島和彦氏【写真:山口真司】
中日、ロッテでプレーした牛島和彦氏【写真:山口真司】

牛島和彦氏は右肩痛で2年間未勝利…1992年に924日ぶり白星を手にした

 手がしびれて、首が動かない時期もあった。中日、ロッテで活躍した牛島和彦氏(野球評論家)は1993年シーズン限りでユニホームを脱いだ。プロ生活は14年。32歳での引退だった。ロッテ移籍3年目の1989年に右肩を痛めた。治療、リハビリを経て1992年に924日ぶりの白星も挙げたが、その後、今度は血行障害に……。不屈の闘志でマウンドに上がるまでに回復させたものの、最終的には「これ以上は見込めないと考えた」という。

 1989年シーズン後半に痛めた右肩の状態は、プロ11年目の1990年になっても芳しくなかった。牛島氏は中日時代の1982年に右肘を痛めながら無理して投げて優勝に貢献したが「それ以来、肘が痛くない時はなかった」と言うように、怪我と向き合い、対処しながらプロ生活を続けた。右肩も万全ではない中、1990年シーズン開幕4戦目(4月12日の日本ハム戦、東京ドーム)に先発した。結果は4回4失点で敗戦投手だった。

 その後はリリーフで2試合登板。5月11日の日本ハム戦(川崎)に3番手で8-4の9回にマウンドに上がり、ブライアン・デイエット外野手に一発を浴びて2失点しながらも最後を締めたが、この年はここで戦線離脱となった。「無理して投げたけど、駄目だったんだと思う。それからはいろいろ治療したけど、うまくいかなくて病院も変わったり……」。早期復帰は諦めて「12年目(1991年)の公式戦の最後くらいに間に合うようにリハビリしていこうとなった」という。

 実際、その12年目は9月14日のオリックス(川崎)に先発した。「痛みもマシになってきて5回くらいは投げられるだろうって感じだったと思います」。4回2/3を3失点で敗戦投手となり、そのシーズンの登板はこの1試合だけで終わったが、投げられたのは大きな収穫だった。「これで今度は13年目(1992年)に照準を合わせて肩を治していこうという話になりましたからね」。苦しい闘いも1歩ずつ前に進んでいた。

 迎えた13年目、牛島氏は開幕2戦目の1992年4月7日のダイエー戦(千葉)に先発して、1失点完投勝利を飾った。1989年9月26日のダイエー戦(平和台)で右肩痛を抱えながらシーズン12勝目をマークして以来、実に924日ぶりの復活星だった。チームは千葉に移転。ロッテオリオンズから千葉ロッテマリーンズになってからの記念すべき公式戦初勝利でもあった。「うれしかったですね。何より完投できたことで、これでいけるかもって思いになりましたね」。

復活直後に血行障害…手のしびれや首の痛みに悩まされた

 そこから中15日で先発した4月23日の近鉄戦(日生)も1失点完投で2勝目。被安打3、10三振を奪う力投だった。しかし……。「肩の痛みからは復活できたということだったんですけどね……」。ずっと苦しんできて、ようやく報われたのに、また試練がやってきた。「手がしびれたり、首が動かなくなったりしたんです」。血行障害の症状だった。違和感がありながらも、しばらく登板したが結果ももうひとつ。6月中旬にまた離脱することになった。

 それでも終盤には復帰した。9月29日のオリックス戦(千葉)に先発して、5回1/3を1失点。試合はそのまま降雨コールドでロッテが2-1で勝ち、牛島氏にシーズン3勝目がついた。だが、この頃のことは「あまり覚えていない」という。「血行障害になった時は、ドクターに対しても投げられるようにしてください、じゃなくて私生活が普通にできるように治してくださいって感じでしたからね。その後はどこで勝ったとか、どこで投げたとか記憶がほとんどないんです」。

 それだけ深刻な状態だったということだろう。プロ14年目の1993年は9登板9先発で2勝5敗、防御率5.32だったが「もう相手バッターと勝負するんじゃなくて、自分の体と闘っていましたからね。痛くならないかなって心配しながらボールを放らないといけなかったし……。だから勝ち星とか内容はほとんど覚えていないんですよ」。ただし、その年でやめるとはシーズン中に考えてはいなかったという。

 シーズン最終先発は4回途中でKOされて敗戦投手になった8月18日のダイエー戦(福岡ドーム)で、結果的にそれが現役ラスト登板にもなった。牛島氏は「その時も辞める気はなかったですよ。自分のなかでは来年もって思っていましたからね」と話した。引退に傾いたのはオフになってから。「自分の体がどうしてもすっきりしないというのがあって、迷い始めたんですよ。これから先、体は回復傾向ではない、良くはなっていかないなと思って……」。

FA制度導入の1993年オフに引退「イメージ通りの成績が残せないのは嫌」

 そんな時に球団から聞かれたという。「僕、FAの資格を持っていたんですよ。それで『FAするんですか、残るんですか、やめるんですか』って」。考えた。「例えば来年残ったとしても、FAしてもどれだけ成績を残せるんだろうか。このまま年数を重ねても2勝とか3勝とか残せなかったら嫌やなぁ、逆にストレスたまるなぁとかね。やっぱりやるからには先発なら2桁、クローザーだったら20セーブ。その最低目標を達成できないとなれば、もうやめようと思ったんです」。

 1993年オフに、NPBでFA制度が導入された。牛島氏らとの交換トレードでロッテから中日に移籍した落合博満内野手はFA権を行使して巨人入りした。そんなオフに牛島氏はあえて引退を選択した。ロッテ球団にも「やめます」と返事をして、プロでの現役生活を14年間で終えた。フォークボールを武器に中日でもロッテでも結果を出した右腕はまだ32歳だったが「インナーマッスルが切れかけていましたし、そんなに戻れないなぁって感じもあったんですよ」と話した。

 浪商(大阪)時代に甲子園を沸かせて、ドラフト1位で中日に入団。プロ1年目から1軍で投げた。1986年オフに、まさかのトレードでロッテに移籍することになったが、それも発奮材料にして、さらに成績をアップさせた。最後は怪我に泣いたが「後悔はない。納得しています」と言う。「僕は割り切る時は早いですからね。トレードの時も考えるだけ考えて、行くと決めたらもうって感じでしたしね」。

 どんな時でも決して手を抜かなかった。試練があっても悲観的にならず、絶えず前を向いて乗り切っていった。並の精神力ではできなかったはずだ。「やり残したというのは多分、どこまで行ってもあると思いますよ。でも僕にはやっぱり自分のイメージ通りの成績が残せないのは嫌だというのがありましたからね」。細身の体で現役生活を全うした当時を思い出しながら牛島氏は笑みをこぼした。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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