知らぬ間に引退報道…恩師から「使ってもらえねぇぞ」 家族を呼べなかった“晴れ舞台”
松沼博久氏は1990年キャンプでつまずき2軍落ち…引退報道に困惑した
納得していたはずなのに涙が止まらなかった。弟の雅之氏と一緒にドラフト外で西武に入団し、「兄やん」の愛称で親しまれた野球評論家の松沼博久氏は、アンダースローの先発としてプロ12年間で112勝をマークした。「記録的にはよくやった方だと思うんだけど、もっとできたような気もするんです」。1990年は4勝7敗、防御率5.49。現役生活ラストシーズンを回想した。
松沼氏は前年1989年に4年ぶりの2桁となる11勝。38歳を迎えるシーズンに向けて「今年もできるかな」と自信を取り戻していた。米ハワイ・オアフ島での第1次キャンプ。「選手たちは1人ずつ、みんなの前で個人の目標の発表する場があるのです。そこで僕は『「2桁勝てないと、もしかしたら終わっちゃうかもしれないから、そうならないよう頑張ります。絶対2桁勝ちます!』と宣言しました」。
ところが、そのキャンプ中に異変を自覚した。「上手く体が動かなかったんですよね。ベッドから降りた時に右足の親指を突いてしまって。患部をテーピングしていたんです。その後遺症だったんじゃないかな」。誤算のスタートとなってしまった。
不安を抱えたまま開幕した。やはり、なかなか結果が残せない。「うーん困ったなぁと思っていたら、ファームにすぐ落ちました。2軍に落とされた理由が再調整を期待されてのものなのか、もう駄目なのか、よく分からなかった。そしたら新聞に『松沼引退』って報道されたのです。僕は何も言ってないんですよ」。松沼氏は球団フロントの根本陸夫管理部長の下に赴いた。
「引退って出てますけど」と問い掛けた。「オイ、どうするんだ。もう、いいんじゃねぇか」と根本氏。「いやー、まだちょっと気持ちが決まってないんですが……」と悩める胸中を正直に伝えると、「どこかでやりたいのだったら、他の球団を探してやるよ」。松沼氏の希望を尊重する手筈は整えるという。その上でピシャリ。「でも、やっても1年かそこらだぞ。だったら西武の看板を背負って、これから先を行った方がいいんじゃねぇのか。就職先も探してやるから」。さらには「森(祇晶監督)から、もう使ってもらえねぇぞ」。
雨中のマウンドで有終の美も「ベンチに帰りたくなかった」
松沼氏は進退について熟考した。登板機会が少なくなった現実を「そりゃそうだよな。俺、何回も試合を壊しているしな」と顧みた。根本氏は、入団交渉で松沼兄弟を引き入れてくれた当時の監督でもある。「そうなんですよ。だから僕の中では根本さんは絶対なのです」と心酔する存在だ。“親分”ならではのストレートな物言いには、ライオンズを支え続けてきてくれた松沼氏をねぎらう愛情が含まれていた。
引退登板はレギュラーシーズン最終戦の10月13日、ロッテ戦。敵地・川崎球場で先発した。相手はマサカリ投法のエース村田兆治投手で、こちらも引退試合だった。両先発の最後の雄姿に天も泣いたのか、雨が降りしきる中の一戦は5回降雨コールドの0-4で決着した。松沼氏は述懐する。「ホームの西武球場だったら家族も呼べたんだろうけど、天気予報が悪くてね。球場も古くてキレイじゃなかった川崎。家族は呼べないでしょう。今でも家族にその事を言われますけどね」。
2イニングを無失点で有終の美を飾った。「もう自分の中では絶対に終わりって、引退に納得してたんですけど……。いざ川崎に行って『最後の登板』と言われた時に何か知らないけれど涙が止まらなくてね。『俺って後悔しているんじゃないのか』『もっとできるんじゃないか』と頭をよぎりました」。ウオーミングアップで瞳が濡れていたのは雨粒ではなかった。「本当に涙が止まらなくなって。困ったもんだな、と思ってました」。
2回の満塁の危機を切り抜け、最後のマウンドを降りた。チーム最年長の功労者を温かく迎えようと選手たちが待ち構えている。「ベンチに戻らなきゃいけないんだけれど、真っ直ぐ帰っていくのが嫌でした。帰っちゃったら、着いちゃったら終わりだから……」。松沼氏は言葉を繋いだ。「あの思いは忘れないね」。西武球団に記念すべき初勝利をもたらしたパイオニアは、マウンドに別れを告げた。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)