新入生138人→3か月で半減 水飲み禁止、帰宅は深夜0時…笘篠誠治の高校生活「おい、128番!」

取材に応じた元西武・笘篠誠治氏【写真:湯浅大】
取材に応じた元西武・笘篠誠治氏【写真:湯浅大】

西武で活躍した笘篠誠治氏「両親はバリバリのバレーボールの選手だった」

 1983年から西武一筋で15年間プレーした笘篠誠治氏は、高い守備力と俊足を生かした名脇役として黄金時代を支え、引退後も5球団で計22年間コーチを務めた。しかし、高校進学時は「春高バレー」に出場できる高校が第1希望だったという。結局、バレーボールの道を断念して大阪・上宮高に入学。2年時には春の選抜大会にも出場したが、Full-Countのインタビューで「高校時代には2度と戻りたくないですね」と当時を振り返った。

 中学校では野球部に所属していたが「両親が実業団でプレーするバリバリのバレーボール選手だったので、私も地元大阪の春高バレー(全日本バレーボール高等学校選手権大会)に出られる高校に行こうと思っていたんです」。父親には高校では花形でもあるアタッカーになりたいという思いを伝えた。

 父の答えは「お前の身長はよく伸びて185センチ。全日本でアタッカーやるなら最低でも190センチは必要」。さらにその場で垂直飛びをやったところ、父の1メートルに対し、笘篠氏は75~80センチほど。「お前、185センチで80センチしか跳べなかったら、(相手に)止められるぞ」と言われたことで「じゃあ、甲子園を目指そうかな、と。あまりに親父が言うものですから」と目標を野球に変えた。

 通っていた塾の先生から勧められたのが、野球部に力を入れ始めていたという上宮高だった。担任の教師に相談したところ、母校の卒業生どころか近隣の学区からも進学していないという。そこで担任が調べたところ「笘篠君、無理。今の君の学力じゃ絶対に無理」。それでも必死に勉強し、公立との併願よりも合格基準が“緩和”されるという私立専願にして「ギリギリ受かりました。よく合格したと思います」と笑った。

 必死に勉強して受かった志望校。入学直前の野球部は、1980年春の選抜大会で同校初の甲子園に出場した影響もあり、138人もの新入生が入部したという。あまりの多さに1年生が練習用ユニホームに大きく記したのは、名前ではなく個人に適当に与えられた1~138の番号だった。

「僕は確か128番だったかな。背中に128と書くんです。先輩から『おい128番、ちょっと来い!』とか。名前は呼ばれませんでした」

「血気盛ん」だった指揮官、“鉄拳制裁”も…

 さらに「なんせ監督が厳しかったです」。同校OBで日体大を卒業した後の名将、山上烈監督は「血気盛ん」だったという。「何十年も前の話で、今では考えられないですが“鉄拳制裁”みたいなこともあった時代でしたから。鼻血を流しながら練習をやったこともあって、ここまでしないと甲子園出られないのかな、という感じでした」。

 当時の運動部は“水飲み禁止”も当たり前で「それが1番辛かった」。練習の厳しさも相まって、138人いた1年生は「3か月で半分以上が辞めました。卒業するとき、同期は27人です。100人以上辞めました」と驚きの“退部率”も明かした。

 京都寄りにあった笘篠氏の自宅から学校のある大阪市天王寺区まで電車で1時間。学校から大阪・河内長野市の野球部グラウンドまで1時間かかった。練習が終わるのが午後10時近く。そこから帰ると深夜0時頃。「食事して、風呂入って、クタクタになって午前2時頃に寝て。すぐ朝6時に起きて学校に行っての3年間。体力的にもかなり大変でした」。

 仲間が大量に離脱していくなかでも、過酷な環境で野球部員を続けられたのは「辞めることよりも、甲子園に出たいという思いが勝っていましたから。なんとか頑張ってレギュラーをとって、甲子園に出たいという気持ちでした」。

 思いが実り、1981年の春の選抜大会に出場。準決勝まで進み、笘篠氏は2回戦の東山高(京都)戦で本塁打を放つなど活躍。2年生ながらプロ注目の存在となり、実力と信念で後の野球人生の道筋を自ら切り開いた。

 ちなみに「128番」だった男は1年時の夏の大会後、3年生引退をもって名前を書くことが許されたという。「漢字でしっかりと書いたのを覚えています」。笘篠氏は笑った。

(湯浅大 / Dai Yuasa)

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