女子高生ファン急増で「負けるように」 監督は激怒…甲子園4強で待っていた光景
“伝説のスカウト”法元英明氏は八尾高3年時に甲子園春夏連続出場
中日元外野手で“伝説のスカウト”と称される法元英明(ほうもと・ひであき)氏は、7月25日に行われる球団初のOB戦「DRAGONS CLASSIC LEGEND GAME2024」で総監督を務める。89歳の法元氏は、1952年の八尾高(大阪)3年時に春夏連続で甲子園出場を経験した。春はベスト4、夏は準優勝。エース・木村保投手(元南海)の投球が抜群だったが、特に思い出深いのは1-4で敗れた芦屋(兵庫)との夏決勝。豪雨後のグラウンドでの幻の決勝打、痛恨のスクイズ取消サイン見落としなど悔しい出来事が続いた。
法元氏は1950年に八尾高に入学。「初めて練習試合に出させてもらった時の相手は桃山学院。ピッチャーは同じ1年の堀本(律雄、元巨人、大映)だった。物凄く怖い顔で投げとったけど、2本ヒットを打ったのは覚えているな」。後にプロでも対戦する堀本は、高校時代のライバル。最初の対戦は法元氏の勝ちだったようだ。しかし、1年夏は1回戦で工芸に2-5で敗戦。法元氏はベンチ入りしたが、出番なしで終わった。「あの時は負けて腹が立ったなぁ」。
1年秋からエース格は同級生の木村で、ずば抜けた存在だった。法元氏は「2年のはじめだったかな、監督からピッチャーをやれって言われた。木村のリリーフで、時々外野を守らされるって感じだった。練習試合では俺が抑えて、木村が打たれるんだけど、公式戦になったら木村は抑える。そのへんがうまいんだよ」。2年秋は大阪大会を制し、近畿大会準優勝で選抜切符をつかんだが、その原動力も木村だった。「あいつはすごかったねぇ」。
1952年選抜大会で、八尾は準決勝で静岡商に0-2で敗れたが、光ったのは木村。控え投手兼外野手の法元氏は甲子園のマウンドに上がることはなかった。「でもね、甲子園でベスト4まで行って帰ったら女子高生が騒ぎだしたんだよ」。木村だけなく、八尾ナインそれぞれが人気急上昇だったが、そこから野球の成績は下降線をたどったという。「女の子が練習を見に来るようになってから、練習試合とかでよく負けるようになったんだよ」。
決して気の緩みがあったわけではなかったそうだが、結果が出なければ、そう見られてしまう。「監督には喝を入れられましたよ。しごきでね。お前ら、ふにゃふにゃしているって。夏の大会が始まる10日前、いや、もうちょっと前かな。それからやね、みんな気合が入ったというか……」。控え投手兼外野手の法元氏は打撃力がアップし「3番・右翼」でスタメン出場するようになった。「面白いほど打てた。なんでかわからない。来た球を打つだけだったんだけどね」。
木村も快投の連続だった。夏の大阪大会は1回戦で東に9-0、2回戦は香里に3-0、3回戦は生野工に7-0、4回戦は阿倍野に5-0、準々決勝の今宮に1-0。準決勝も扇町に3-0、決勝の明星に2-0と1点も許さなかった。法元氏は「大阪大会では僕も1回リリーフで投げたんだよ。四球を2つ出して、また代わったけどね。ホント、木村はすごかった。1点取ったら勝ちだったもんね」。その勢いは甲子園でも続いた。
夏は決勝進出も芦屋に敗戦…明暗分けたびちゃびちゃのグラウンド
2回戦からの出場で盛岡商(奥羽)を6-0、準々決勝は松山商(北四国)を4-0で下し、準決勝は長崎商(西九州)を1-0。そこまで木村はすべて完封だった。法元氏も「3番・右翼」で打撃好調をキープ。迎えた決勝の相手は芦屋だった。「試合が始まる前には物凄い雨が降った。もう今日は中止と思った。ところが雨が止んでやることになった。グラウンドはびちゃびちゃだったけどね」。忘れられないのは1-1の5回裏、八尾の攻撃だ。
八尾打線は芦屋のエース・植村義信投手(元毎日、元日本ハム監督など)をとらえ、1番・西井福男内野手らの安打などで無死満塁。絶好機で3番の法元氏に回ってきた。「粘って粘ってカーンと打ったらズルズルズルって打球がファーストの前で止まって……」。不良のグラウンドのせいで打球の勢いがなくなり、本塁封殺。「あれはみんな言ってましたよ。普通ならタイムリーになっていた。ええ当たりだったのにってね」。悔しい思い出の“幻の勝ち越し打”というわけだ。
攻撃は続く。法元氏は一塁に残って、なおも1死満塁。打者は4番の元橋一登外野手だった。「監督がスクイズのサインを出したんだけど、すぐに取り消したんです。僕は一塁ランナーで気付いたけど、二塁ランナーは大丈夫かな、わかっているかなって思っていたら、(次の投球で)飛び出して挟殺プレーでアウトになったんですよ」。打者も一、三塁走者もスクイズ取消サインを確認していたが、二塁走者だけは見落としていた悲劇だった。
「その後、元橋も四球を選んで、また満塁になったけど(5番・投手の)木村のセンターに抜けそうな当たりを向こうのセカンドが超ファインプレーでアウトにして、結局、点が入らなかった。あれが分岐点だったね」。芦屋の二塁手は当時2年生の本屋敷錦吾(元阪急、阪神)だった。試合は芦屋が7回に3点を奪って勝利したが、法元氏は「あれはバント攻撃をやられて、こっちの一塁と三塁がそれぞれグラウンドに足を取られてひっくり返ってピンチを作ってやられたんですよ」。
超軟弱なグラウンドに泣かされての敗戦で準優勝。「ウチもバント攻めをやればよかったのかもしれないけどね。でも、今考えてみても、負けたからいうわけじゃないけど、こんなところでやるのって感じだったし、中止でよかったと思うよ。あの時は大阪と兵庫の決勝だったから、お客さんも試合をやるってなったらウワーっと来たんだよねぇ……」と法元氏は何とも言えない表情を浮かべた。
八尾のエース・木村は早大を経て1957年に南海入り。いきなり21勝を挙げて新人王に輝いた。右肩を痛めて野手に転向するなどプロでは苦労したが、南海でスカウトやコーチも務めた。法元氏はそんな右腕とともに戦った八尾高での3年間を決して忘れることはない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)