新監督とGMで起きた“ズレ” 振り回される選手たち…初芝清氏に募った不安「物足りない」
バレンタイン氏が1995年に監督就任…激減した練習量
「僕の中で、あれ以上の打席はないですね」。ロッテ一筋17年間で強打の内野手として“ミスターロッテ”と称され、社会人野球「オールフロンティア」で監督を務める初芝清氏。シーズン最後の打席で打点王のタイトル&打率3割を掴み、プロ7年目にして初めてチームのAクラス入りの喜びを味わった1995年を回想した。
この年は、メジャーで監督経験を持つ陽気な米国人が指揮を執った。ボビー・バレンタイン監督だ。初芝氏は「ちょっと捉え方が難しいですけど、“べースボール”っていう感じ」と表現する。「練習をやって築き上げたものが日本の野球。ボビーは練習は試合に向けた途中の過程だ、とそんな風かな。だから練習が必ず良いという感じではないです」。それまでやってきたスタイルとは正反対だった。
当時40代半ばのバレンタイン監督は、まずはキャンプで日本式のメニューに取り組んでみせた。「ボビーもまだ若かったから、自ら特守を受けたんです。1000本ノックみたいな。選手がやっている事を体験するわけです」。その上で「そんなに練習したら疲れるのではないですか? とか問い掛けるのです」。ボビー流を徐々に推進した。
チームは表立った練習量が激減した。個人練習をすれば「ストップ!」「ダメ!」の声。「どうしても調子が悪い時は、練習して何とか良い方向に持っていこうとするじゃないですか。ボビーは逆。悪い時に練習したらもっと悪くなる。気持ちや頭の中をリセットしなさい、と。それが良いのか悪いのかは分からない」。選手は困惑するばかり。「物足りない。みんな隠れて練習していましたね」。
監督を招聘した広岡達朗GMは現役時代、巨人の名ショートとして鳴らした。還暦を越えていたGMもキャンプで実技を披露していた。「現役選手より動きが速く、凄いんですよ」。技術に加え、状況に応じた対応を説いた。「土なら基本的にはショートバウンドでゴロを捕るんですけど、広岡さんは『違うんだよ。マリンは人工芝でイレギュラーしない。バウンドが途中で上がって来る所でも捕りゃいいんだよ』と仰って」。野球理論を教わった。
シーズンが進むにつれ、2トップの“ズレ”が目立ち始めた。「広岡さんは練習をやらせたい。ボビーはやらせたくない……というのも変ですけどね。僕らの目の前で、どうこうは全然なかったですが、ギクシャク感はありました」と認める。「でもそこら辺は、僕らには関係ないところですから」。
シーズン最終戦の最終打席で本塁打…手にした“2つの勲章”
4月は最下位スタート。だが、次第に浮上して2位でフィニッシュした。選手たちはボビー流を理解していったのか。初芝氏は「いや、理解はしてないのでは」。理由を「日替わりなんですよ。打線が」と説明する。
「昨日は4番で、きょうは7番とか。前日に打ってるのにスタメンを外れているとか簡単にあった。打順には役割があります。どの打順を打つのか、試合に出るのか出ないのか。最初の頃は、みんな戸惑ってましたね」。それでもチーム成績は上昇した。「ボビーも途中からはクリーンアップは、固定でいきましたから」。堀幸一、フリオ・フランコ両内野手、初芝氏の中軸が安定したことで、文字通り打線が「線」として繋がっていった。
シーズン最終戦の9月28日の西武戦。初芝氏には勲章2つが懸かっていた。試合前の79打点は日本ハムの田中幸雄内野手と並ぶリーグトップ。打率も.302で初めて3割に手が届く。ただし4打数無安打だと3割を逸してしまう。「打点しか頭になかったです」。優先順位は明確だった。
3打数無安打で迎えた8回2死。走者はいない。「ホームランを打つしか打点は稼げない」。集中力を研ぎ澄ませてラストチャンスに臨んだ。「ピッチャーは豊田(清)。ここに絶対こう真っ直ぐが来て、これをつかまえる。予想通りのボールが来て左中間へ一発。弾道までイメージした通り。僕の中で、あれ以上の打席はないですね。本当に最高潮でした」。最終的には田中、オリックスのイチロー外野手と3人で分け合う形で打点王。そして3割もクリアできた。
チームもAクラス。お得意のジョークで僚友と奮闘したシーズンを締める。「それにしても最後の試合は、だーれも俺の前に走者が出やしない。堀、フランコなんてリーグ打率2位と3位で並んでるのに。まー、出やしない」。3回は3番・堀が3ランで走者を全て還してしまい? 続くフランコは単打。それ以外は初芝氏の打席で、走者は不在だった。
最終戦はビジターの西武球場。左翼席のロッテファンから「ボビー」コールが起き、指揮官も頭を下げて感謝した。しかし、バレンタイン監督のロッテ最初の采配は、ひとまず1年で終了することになる。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)