「生姜焼きの味を変えろ」PL学園の“謎ルール” 理不尽すぎた寮生活「練習よりしんどい」
元日本テレビアナウンサーの上重聡氏がPL学園時代を語った
日本テレビを3月いっぱいで退社し、フリーアナウンサーとなった上重聡氏は大阪・PL学園のエースとして甲子園でも活躍した。多くのプロ野球選手を輩出し、高校野球界きっての名門であるのと同時に、厳しい“規律”でも知られたPL学園野球部。Full-CountのインタビューではPL学園を選択した理由や「一番大変でした」という寮での付き人制度を回顧した。
「やっぱり大阪の最高峰でしたから。中学3年のときに甲子園で福留孝介さん(中日、阪神など)を見てかっこいいなと。私自身は小、中学校でも2番手ピッチャーでしたが、どうせやるなら最高のところでやってみたかったんです」
所属していた「八尾フレンド(現大阪八尾ボーイズ)」から毎年数人がPL学園へ進学。寮生活が厳しいという情報は届いていたが「今ほどの情報量がなかった。どの学校も厳しいと思っていましたし、実家からもそこまで遠くない。何も異国の地に行くわけではないからと……あまり深く考えていなかったんです」と苦笑いした。
中学3年で最後の8月の全国大会でのアピールが実り進学は“内定”。後にエースへと成長するが、当時のスカウトからは「同級生7人いる投手のうち君は6番目の評価。3年生のときに1回でもPLのユニホームを着られたらラッキーくらいの思いで入ってください」と言われたという。
思いが叶って入学した上重氏を待ち受けていたのは、事前の情報をはるかに上回る壮絶な寮生活だった。「付き人制度があって、それが一番大変でした」。1年生は担当する3年生の身の回りのお世話をする。洗濯、アイロン、食事の用意……練習後に待ち受ける過酷な時間。「遅れると、どんどん睡眠時間を削られる。練習というより寮生活がしんどくて辞めた人もいました」。
食事のメニューも先輩の好みに“味変”
練習後は8機ほどある洗濯機の奪い合い。順番待ちを回避するため、我先にとダッシュで競争が始まる。入念に泥汚れを落とし、担当する3年生の好みの畳み方で着る順に合わせてズボン、ソックスなどを綺麗に積み重ねて置いておく。
食事も気が休まらない。用意されたメニューを先輩の好みに変えて“味変”するのも1年生の役目。「生姜焼きが出ても、生姜が嫌いな先輩がいると『生姜の味を変えろ』と。豚肉を水で洗って、砂糖と醤油で味を変えて照り焼きみたいにするんです」。卵も「好みに合わせて半熟なのか、よく焼けているのがいいのか。だから食堂に5台くらいあったカセットコンロも奪い合いです。とにかく常に競争でした」と明かした。
謎のルールも存在した。「食卓にある調味料で1年生はマヨネーズが禁止だったんです。醤油、ソースなどもあるのですが、なぜかマヨネーズだけが禁止。ダメと言われると食べたくなっちゃうんですよね」。上重氏は思い切って先輩に理由を尋ねたことがあった。
「甲子園に出るためには何かを我慢しなくちゃいけないんだ」。返答もやはり謎の理屈だったが、上重氏は「それが何でマヨネーズが我慢することなんだと思いましたけど、手が届きそうで届かない。それがマヨネーズと甲子園なのか」と無理やりに自分を納得させていたという。
当時は寮は6人部屋で1、2、3年生が2人ずつ。2年生は自分のことだけを行う。だからこそ「2年になったときは嬉しかったです。何が嬉しいってマヨネーズを食べられるようになったことですかね。何にでもかけて食べていました」。技術だけでなく、メンタルもタフに鍛えられた寮生活。PL学園出身の猛者たちが歩んできた道だった。
(湯浅大 / Dai Yuasa)