阪神元ドラ1「目立ったら面倒くさい」 補欠の中学時代、監督は父…「完全に挫折」

元阪神・的場寛一氏【写真:山口真司】
元阪神・的場寛一氏【写真:山口真司】

元阪神ドラ1・的場寛一氏は中学で補欠…父が監督を務めていた

 伸び悩んだ。元阪神ドラフト1位の的場寛一氏は小学5年からボーイズリーグ「兵庫尼崎」に入った。小学生チームでは主力として活躍したが、中学生になってからは途端に結果を残せなくなったという。「中学時代は、ずっと準レギュラーというか、補欠でした」。これには父・康司氏が中学の部の監督を務めていたことが、無関係ではなかったという。「自分を出せない自分がいた」と当時の複雑な心境を振り返った。

 1999年ドラフト1位で九州共立大から阪神入りした的場氏だが、最初につまずいたのが中学時代だった。小5から「兵庫尼崎」に入り、小学生チームでは「プロに行けるんじゃないかと思ってしまった」というほど抜きん出た力を発揮していたが、中学生チームに上がってからは状況が変わり「ずっと補欠でした」。途端にうまくいかなくなった。

「父が(中学生の部の)監督でいることで、照れなのかわからなかったですけど、自分を出せない自分がいた。本気になるのが恥ずかしいというか、ちょっと難しい精神状態だったですねぇ……。例えば遠投とか、結構投げられたんですけど、ひねくれていたのか、わざとちょろっとしか投げなかったりしていた。そこで目立ったら、あとで面倒くさいことになりそうだなとか、そんなことばかり考えて……。そのうちだんだんと野球がおろそかになっていった時期でした」。

 幼少の頃から的場氏の目には、父の「兵庫尼崎」での厳しい指導が焼き付いていた。「あの頃のチームはちょっとヤンチャな子が集まっていて、父も学生の頃、ヤンチャだったんで、その気持ちがわかるというか、横に外れそうなヤツの首根っこをつかまえて、野球で更生させるじゃないですけど、とにかく厳しかったんです。家には一切、そういうのは持ち込まないんですけど、そういうのを見てきましたからね」。

厳しかった父の指導「人の倍、どつかれた」

 実際、監督の父は家にいる時とは違ったという。「中学になってからは、外に一歩出るとどつかれまくりました。気を抜いたエラーとかしたら目茶苦茶にね。父は『自分の息子にだけ優しいと思われるのは嫌や』って言っていました。だから人の倍、どつかれたんじゃないですかね。父は僕と同じレベルの選手がいたら、その選手を使っていた。僕にはそれも面白くなかったんですけどね、まだ子どもでしたから。何で俺を使わないんだろうって思っていました」。

 とはいえ中学時代は、小学時代のように力が抜きん出ていなかったのも事実だった。「チーム自体は強くて、近畿では優勝したりもしていたんですけど、僕は出たり出なかったり。たまに使ってもらう時は大差で面白くない試合。そこでもまたタイムリーエラーしたりして……」。厳しい環境下で、しかも結果も出ない。「今、思うと完全に挫折していましたね」。小学生の時に思い描いたプロ野球選手になりたいとの夢も「中学ではそういう気持ちもなくなっていました」と言う。

 そんな的場氏を立ち直らせたのも、父だった。「ある時、父に『1人でやる練習だけは継続しろよ』って言われたんです。よく覚えています。みんなと一緒の練習が一通り終わった後、僕は残ってやっていたんです。何でか、1人でやるのは楽しかった。自分の世界に入って、素振りとかシャドーピッチングとかも7回表ツーアウト2塁とか言いながら。父はそれを見ていてくれたんです」。

 その練習が、的場氏と野球をかろうじてつなぎ止めた。「中学の頃の僕の姿を見て、父も野球選手としては厳しいやろうなって思っていたでしょうけどね」。一度もレギュラーになれなかった中学時代は辛い日々だったが、前を向いて乗り越えた。それどころか、さらに努力を積み重ねてドラフト1位される選手になったのだから……。プロで怪我に泣かされても社会人野球で復活するなど、諦めずにステップアップするのも的場氏の野球人生の特徴でもある。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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