智弁和歌山を撃破→公立校に敗戦「衝撃だった」 元阪神4番の“脳裏”に刻まれた高2の夏

元阪神・濱中治氏【写真:山口真司】
元阪神・濱中治氏【写真:山口真司】

元阪神・濱中治氏は和歌山・南部高で1年夏からレギュラー

 元阪神4番打者の濱中治氏(野球評論家、関西独立リーグ・和歌山ウェイブスGM)は和歌山・南部高で1994年の1年夏からレギュラーの座をつかんだ。だが、目標の甲子園は遠かった。1995年の2年夏は2回戦で智弁和歌山を撃破しながら、3回戦で県立校の田辺に敗退。2年秋は投手・濱中の自滅で準決勝で伊都に敗れた。しかし、振り返れば、この負けこそが成長につながるきっかけになったという。「野球とちゃんと向き合えるようになったんです」と明かした。

 濱中氏は田辺市立明洋中学3年の時に南部高の練習に参加し、豪快な一発を連発した。「硬球を打つのは初めてだったんですけど、ホントに自分でもびっくりするくらい飛んでいた。南部高のレフト方向にはけっこう高いネットがあるんですけど、そこにもバンバン当てていたんで……」。結果、南部高への進学も決めた。その時から「『ファーストを空けとくから』って」。野球部内でも「とんでもないのが入ってくるぞ」みたいに言われていたそうだ。

 1994年の1年夏の和歌山大会に濱中氏は「6番・一塁」で出場した。南部は準々決勝で敗退したが、「僕は確か、12打数6安打で6三振。ヒットか三振でした。ホームランも1本打ちましたね」と魅力たっぷりの打棒も見せつけた。1年秋からは4番。和歌山3位で近畿大会に出場したが、1回戦で神港学園(兵庫)に敗れ、選抜切符はつかめなかった。「神港学園のピッチャー(杉本祐樹投手)の球が速かったのは覚えていますね」と無念の敗戦だった。

 とはいえ、当時の南部のエースは、後に社会人野球・田村コピーから1999年ドラフト2位(逆指名)で巨人入りする谷浩弥投手。濱中氏は「1学年上に谷さんという絶対的なエースもいたし(甲子園を)狙えるところにいたと思います」と言い、翌1995年夏に向けて楽しみなチームでもあった。実際、その夏、南部は最高のスタートを切った。初戦の2回戦で強豪・智弁和歌山と対戦し、延長10回の激闘の末、7-6でサヨナラ勝ちしたのだ。

 だが、続かなかった。「初戦で智弁が負けるってことはなかなかないこと。大金星なんで、僕たちも勢いに乗っていけるかなと思ったんですけどね」。3回戦で田辺に0-2で敗れた。「田辺は僕の地元の進学校で、あの年、甲子園に行ったんですよね。衝撃的だったのは相手ピッチャー(浅山和哉投手)が冬を越えて、球が速くなったりとか目茶苦茶変わっていたこと。これはその方の努力やな、成長がすごかったなと思いましたね」。

高2秋は和歌山大会準決勝で敗退…制球難で自滅し、生じた意識の変化

 1994年秋の大会では準々決勝で南部が田辺に勝利していた。それだけに驚いたそうだ。「智弁に勝って、これで行けるなって思ったところでの完封負けだったのでちょっとショックだったし、インパクトが何かありましたねぇ」と濱中氏は悔しそうに話したが、さらに、エースで4番となった2年秋についても「あの時も僕にとっては衝撃的な負けだったんですよ」と続けた。和歌山大会準決勝で伊都に4-6で敗れた試合だ。

 その日、濱中氏は本塁打を放っているが、唇をかんだのは2-1と1点リードの5回に5点を失って逆転された投球内容だった。「フォアボールを連発して、走者をためて、最終的にはセンター前にポトリと落ちる当たりをセンターがダイビングキャッチしようとして捕れなくて……」。制球難で自滅しての敗戦に自分自身を許せなかった。「ホント、悔しくて、もっと上のレベルに行くためには、これじゃあアカンと思った」という。

 濱中氏は高校での練習が終わり、帰宅後に個人練習用の小屋でティー打撃などをするのが日課だった。それは小学校時代から父・憲治さんに促された練習でずっと続けていたが「(伊都に)負けた日、初めて父に『夜のティーとかランニングとかを真剣にしたいから量を多くして付き合ってほしい』と僕の方からお願いしたんです」。やらされている練習ではなく、野球ともう一度向き合って、巻き返しを誓っての行動だった。

 それがいいきっかけになった。「練習量は増えましたし、自分から言った以上、やらないといけないという責任感もありました。そこから(次の年の)夏が終わるまでずっと野球漬けだった気がします。おかげで冬を越えた時に一気に飛距離も伸びましたし、ホームランも増えた。球のスピードも上がった。やった分だけ成果は上がるんだなというのを感じた」という。2年秋の敗戦を糧にして成長し、プロからも注目される選手になったわけだ。

「いかに自分がやる気を出してできるかだなと思いましたね。やらされるんじゃなくて、自分がやりたいって思えたからこそ伸びた。やらされているうちは緩やかな線でしか伸びていかないと思います。ただこなしているだけの練習と自分がやらなアカンという気持ちが入った練習は全然違いました」。1996年の最後の夏は準決勝で智弁和歌山に敗れ、甲子園にはたどりつけなかったが、濱中氏にとって2年秋から3年夏にかけての経験は、忘れられないものになっている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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