阪神“暗黒時代”が呼んだ大砲の覚醒 大きかった6試合の経験「このままでは駄目」

1998年、2軍戦に出場する濱中治氏【写真提供:産経新聞社】
1998年、2軍戦に出場する濱中治氏【写真提供:産経新聞社】

濱中治氏は高卒1年目の1997年、6試合に出場…2安打をマークした

 元阪神、オリックス、ヤクルト外野手の濱中治氏(野球評論家、関西独立リーグ・和歌山ウェイブスGM)は、阪神でのプロ1年目の1997年9月に1軍デビューを果たした。結果は6試合に出場して12打数2安打、0本塁打、0打点。「1軍を経験させてもらったのは大きかったです」と言い、同時に思ったのが「このままでは駄目」。1軍投手のスピードボールに対応するために合宿所隣接の室内練習場では敢えて“ひとり練習”をスタートさせたという。

 和歌山・南部高からドラフト3位で阪神入りした濱中氏はルーキーイヤーの1997年に1軍から呼ばれた。デビューは9月20日の中日戦(ナゴヤドーム)で代打で起用された。相手は中日・山田洋投手で「ショートゴロだったですかねぇ……」。翌9月21日の同カードには「7番・左翼」でスタメン出場。5回表に中日・今中慎二投手からプロ初安打をマークした。「バットの先に当ててのショートへの内野安打だったと思います」。

 9月26日からのヤクルト3連戦(神宮)では1、2戦目に代打出場。3戦目の9月28日は「8番・左翼」でフル出場して3打数無安打だった。「その試合でヤクルトの優勝が決まったんですよね。それはすごく覚えていますね」。シーズン最終の10月12日の横浜戦では途中から左翼守備に就き、1打数無安打だったが、初めて本拠地・甲子園でプレーした。ちなみに、この年、濱中氏が出場した6試合すべてで阪神は敗れた。

「弱い時代でしたからね(1997年の阪神は5位)。でも強い時代だったら、僕なんか(1年目で)1軍に呼んでもらっていないでしょうね。弱い時だったんで、吉田(義男)監督も、ちょっと経験を積ませてやろうかという感じだったと思います」。そして、この6試合が濱中氏にとって大きかったという。「1軍の凄さを知って、そこで活躍するには自分にとって何が必要か。まずスピード。速い真っ直ぐをどうやって打ったらいいのか考えるようになりましたね」。

室内練習場で徹底した単独練習「夜中にやることもありました」

 1軍投手の球を実際に見て、そのレベルを知ったことが濱中氏を突き動かした。「2軍のバッティングコーチだった石井晶さんにも『1軍に行ったら速い真っ直ぐをいかに打ち返せるかやで、変化球はそのうち慣れたら打てるから』と口酸っぱく言われていましたし、まずはそこから入っていきましたね」。マシン打撃では、マシンと自身の距離をどんどん縮めていったという。「近くしたら体感が速くなるじゃないですか。それをけっこうやりましたよ」。

 最初は前に飛ばなかったという。「どうしたらいいか、いろいろ考えて打てるようになりました」。技術向上のために必死だった。「レフト、センター、ライトへの打ち分けもやりました。引っ張るだけでは駄目。右方向にもしっかり打てるようにならないといけないのでね。次の球は外だろうが、内だろうがセンターに飛ばすとか、そういうふうにイメージしながらというのもすごくやりました。ただ打っているだけの練習では1軍のピッチャーはなかなか打てませんからね」。

 それを濱中氏は室内練習場で、ひとりでやっていたという。「誰かがいると集中してできないんですよ。だから誰かがいるなと思ったら、1回引き揚げて時間を置いてからやっていましたね。夜中にやることもありました。集中してイメージしながら練習するのを大事にしていましたから。時間は決めずに自分が納得するまで。バットを内から出してあそこのネットに何球当てるとか、毎日課題を決めてそれができたら終了。30分の時もあれば2時間くらいの時もありましたね」。

 誰にも見られず、黙々とひとりで汗を流した日々。それは1軍で活躍するための基本部分でもあった。「どの時代もそうだと思うんですけど、真っ直ぐを打てないバッターはたぶん1軍で成績を残せないと思います。変化球がうまいだけのバッターって2軍にはいますけどね。それは僕の中では今も変わらないですね」と濱中氏は断言した。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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