阪神→オリ移籍で痛感した“差”「あり得ない」 僅か2台のカメラに衝撃「恵まれていた」
濱中治氏は2008年からオリックスでプレー…阪神との注目度の違いに愕然
元阪神外野手の濱中治氏(野球評論家、関西独立リーグ・和歌山ウェイブスGM)はトレード移籍によってプロ12年目の2008年からオリックスでプレーした。それまで阪神一筋のプロ野球人生。同じ関西地区の球団ながら初めてパ・リーグを経験し、阪神時代との差を感じる部分が多かったという。「いろんな面で改めてタイガースって恵まれていたんだなって思いましたね」としみじみと語った。
2月のオリックス・宮古島キャンプ。濱中氏は「練習に差はないんですけど、マスコミの数の差はありましたね」とまず振り返った。「初日にびっくりしました。(テレビ)カメラが2台くらいしかなかったのでね。『えっ』て思った。こんなに違うもんなんやなって正直、思いましたよ」。初日から大勢のマスコミが押し寄せる阪神キャンプとは違いすぎた。「やっぱりタイガースは注目度が高かったんだなっていうのも思いましたね」。
注目度が違えば当然、報じられ方も違ってくる。「あの頃のオリックスの選手は阪神の2軍に対しても負けたくないオーラがすごく出ていたというか“恵まれて、そんなんで新聞に載りやがって”みたいな、まぁ、妬みじゃないですけど、そういう話はよく聞きましたよ。“野球道具もこっちは買っているのに、もらっているもんな”とかね。みんなそんなふうに思いながらやっているんだなって思いましたよ」。
阪神しか知らなければ、わからないままで終わっていた世界だった。「当時、オリックスの2軍では(食事の際に)自分で麺をゆがいて食べていましたし、タイガースでは絶対あり得ないことを他の球団ではやらなければいけない。タイガースが普通だと思ったらアカンなって思いました」。さらにはセ・リーグとパ・リーグの野球の違いも感じたという。
「あの頃は田中マー君(将大)とかダルビッシュ(有)とか岩隈(久志)とかがいましたし、セ・リーグよりパ・リーグの方がレベルは高いなって思いました。セ・リーグはどちらかというとパワーよりもかわしていく投球スタイルのピッチャーが多かったけど、パ・リーグはパワーピッチャーが多く、真っ直ぐとわかっていても真っ直ぐで勝負という感じ。(野手も)豪快なスイングをしている選手も多い。これはパ・リーグの方が強いなというのが正直な感想でしたね」
移籍1年目は85試合で9HR…2006年の3割20本で「ホッとしたのかも」
そんな移籍1年目、濱中氏は2008年3月20日の西武との開幕戦(西武ドーム=現ベルーナドーム)に「3番・三塁」グレッグ・ラロッカ、「4番・DH」タフィ・ローズ、「5番・一塁」アレックス・カブレラの外国人クリーンアップに続く「6番・右翼」でスタメン出場した。テリー・コリンズ監督の期待も大きかった。4月1日の西武戦(スカイマーク=現ほっともっと神戸)では2-5の5回に西口文也投手から移籍第1号の逆転満塁本塁打を放つなど、インパクトのある活躍も見せた。
しかし、調子は尻すぼみだった。4月終了時点で打率.217、3本塁打、15打点。オリックスも下位に低迷し、5月下旬にコリンズ監督が辞任。大石大二郎ヘッド兼内野守備走塁コーチが監督代行(8月に監督昇格)となった。濱中氏の打撃状態は上がらないままで、7月14日には2軍落ち。8月5日に再登録されたが、9月18日にまた登録抹消となるなど、歯がゆくて、苦しいシーズンだった。
大石オリックスが8月以降、猛烈に巻き返して最終的に2位となった中、濱中氏は85試合で打率.253、9本塁打、29打点に終わった。0勝2敗で敗退した日本ハムとのクライマックスシリーズ・ファーストステージ(10月11、12日・京セラドーム)も第1戦は代打で三振。第2戦は「5番・左翼」で起用されたが、3打数無安打だった。長距離砲としての期待に応えられなかった。
「(阪神時代の)2006年に3割20本を打って、燃え尽き症候群じゃないけど、何かホッとしてしまっていたのかもしれない。(右肩手術後に)あれだけしんどいリハビリをしてようやく、戻って来られて、結果を出したことでね。かといって、オリックスでいいかげんにやっていたわけじゃないんですけどね」。そう思えるほど歯車が狂っていたということだろう。流れが悪かった。どうにもうまくいかなくなった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)