メジャーで失った居場所 窮地にGMからかかってきた電話…阪神入団は「最高の動き」

阪神時代のセシル・フィルダー氏【写真提供:産経新聞社】
阪神時代のセシル・フィルダー氏【写真提供:産経新聞社】

デビューから4年間でわずか220試合出場…トロントから環境を変え日本で開花

 1989年に阪神でプレーし、106試合で38本塁打を放ったセシル・フィルダー氏が米ポッドキャスト番組「The Brett Boone Podcast」に出演した。20歳でのメジャーデビューから数年間は出場機会が限られた内野手が、通算319本塁打を放ったスラッガーに変貌したわけだが、キャリアのターニングポイントとなった日本行きを決めた理由や、当時の裏話が明かされた。

 フィルダー氏はブルージェイズで1985年にメジャーデビューした。「私は行く先々でたくさん打ってきた。高校でも、マイナーリーグでもね。ルーキーリーグでは60数試合で20発打った。だから、私はどこへ行っても本塁打を打ってきた」と自信を持って挑んだ世界だった。

 しかし「トロントに行った時は、素晴らしいアスリートが本当にたくさんいた。ウィリー・アップショー(メジャー昇格時の一塁手のレギュラー)、私、フレッド・マグリフ(1986年にメジャーデビューの一塁手で、通算493発)らがいたし、そしてジョン・オルルド(1989年にメジャーデビューした一塁手で、元首位打者)もメジャー昇格を待っていたところだった。(フィルダー氏を含め)この4人はなかなかいい選手だった」と振り返った。1988年までの4年間で220試合出場に限られ、機会に恵まれていたわけではなかった。そんなときに“転機”が訪れる。

「私が思うに、今までの最高の動きはパット・ギリック(当時のGM)が私に電話をかけ、『日本に行くのはOKか?』と話をしたことだろう。というのも、彼は私に『もしここに残れば、君が置かれる状況は同じだろう。与えられる打席数は(シーズンで)170~175くらいになるだろう。フレッドがいるし、ジョンも(マイナーから)上がってくるんだ』と言った。だから私は『YES、(日本に行く)準備はできているよ』となったんだ」

 この決断により来日し、タテジマのユニホームに袖を通した。106試合で38本塁打とハイペースで打ち続けるも、9月に骨折した影響でその後の出場はかなわず、タイトルも逃した。わずか1年で退団となったわけだが、1990年からはデトロイトに本拠を構えるタイガースでメジャー復帰すると、いきなり51本塁打、132打点で2冠王に輝いた。翌1991年も44本塁打、133打点でタイトルを獲得し、大砲としての地位を確立していった。日本での1年間の経験はフィルダー氏にとっても大きなものとなった。

(Full-Count編集部)

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