「勝負せい!」高校生が打席で吠えて乱闘寸前 大敗に監督ブチ切れ…死ぬ思いした一戦
山崎武司氏は高校時代、享栄・近藤真一投手と熱い戦いを繰り広げた
プロ通算403本塁打の大砲・山崎武司氏(野球評論家)にとって、愛工大名電時代の最大のライバルは同学年の享栄・近藤真一投手だ。後に中日で同僚となる2人。近藤氏はプロ1年目の1987年8月9日の巨人戦(ナゴヤ球場)でノーヒットノーランデビューを飾った左腕で、山崎氏はプロでも何かと刺激を受けてきたが、高校時代の対決も思い出深いことばかりという。「真一のせいで、俺らはえらい目にあってきたからね」と笑いながら懐かしそうに話した。
山崎氏がまず口にしたのは1984年、夏の大会が終わり、新チームになってから享栄・近藤と対戦した時のことだ。「享栄のグラウンドでボッコボコにやられたんですよ。コールド負けでね。もう(愛工大名電の中村豪)監督がブチ切れて、帰ったら『お前ら死ぬまで走っとけ!』って言われて、3時間くらいポールダッシュですよ。ホント死ぬ思いをしました。今でも覚えていますよ。享栄に負けて、真一のせいでね」。
1985年の2年夏は、愛知大会準々決勝で享栄と対戦した。この試合は延長10回表に愛工大名電が2点を奪って4-2で勝利したが、忘れられないのは享栄・近藤に2度敬遠されたことだという。「俺は7番を打っていたけど、その大会は好調だったんで、(享栄監督の)柴垣(旭延)さんのマークは俺だった。それで真一に敬遠を指示したそうだけど、あれは屈辱だったって真一は今でも言っているからね」。
なにしろ、山崎氏は敬遠された時「何で勝負しないんだ! 真一、勝負せい!」と打席で吠えて、乱闘寸前になっている。一方の近藤は練習試合で受けた死球が原因で足の甲を骨折しており、痛み止めを打ってテーピングで患部を固めてのマウンドだった。無念にも柴垣監督の指示で近藤は山崎氏を敬遠するしかなかったが、高校時代から2人は、まさにライバル同士で熱い戦いを繰り広げていたわけだ。
2年秋はノーノー危機…「ホント危なかったなぁ」
山崎氏は苦笑しながら1985年、2年秋の愛知大会決勝リーグで享栄と対戦した時を振り返った。試合は5-2で享栄の勝ち。愛工大名電打線は8回まで近藤の前にノーヒットに封じられていた。「確か豊橋球場での試合だったんですけど、8回終わった時点で中村監督が『お前ら、このままノーヒットノーランをやられて負けたら豊橋から(名電野球部グラウンドがある)春日井まで走って帰れ!』って怒りだしたんですよ」。
愛知県南東部の豊橋市から同北西部の春日井市までは70キロ以上はあると見られる。愛工大名電ナインは一気に緊迫度が増した。「4番・捕手」でキャプテンだった山崎氏は「やべーぞ、豊橋から春日井なんて何キロあるか。よーしここから行くぞ」とナインに声をかけたという。「9回表に真一から何とか2点取った。後に近鉄に入った(3番打者の)松久保(新吾外野手)がかろうじてヒットを打って、俺がそれに続いてね。負けたけど走らなくてよかったのでみんな安堵でしたね」。
山崎氏は「“豊橋から春日井まで走らされかけた事件”だったです。ホント危なかったなぁ。あれも近藤真一にやられたから。だから、あいつには恨みつらみがあったんですよ」とジョークも交えながら笑う。もちろん、高校時代にそんな好敵手がいたからこそ、自身の打力にも磨きがかかったのは言うまでもない。
「中日でも(1986年の)ドラフト1位が真一で、俺が2位。その時も近藤、近藤って周りはワーワー騒いでいたし、真一は1年目(1987年)にノーヒットノーランでしょ。もうとてつもなく置いていかれた気分だったなぁ」と山崎氏は話すが、その時だって持ち前の負けん気は健在だったはずだ。長い下積みこそあったものの、プロ10年目の1996年にはセ・リーグ本塁打王になるなど、光り輝きはじめたのだから……。
プロでは衝撃デビュー後、怪我に泣かされた近藤は1994年に現役を引退し、中日でスカウト、コーチなどを経て、現在は岐阜聖徳学園大硬式野球部監督を務めている。今も仲がいいし、山崎氏にとっては、いつまでも忘れられないライバルだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)