殴られる“恐怖”に怯え…176勝左腕の原点 120キロ台で2041奪三振の大投手が生まれたワケ
通算2041奪三振の星野伸之氏が語る少年時代…憧れは世界の本塁打王
細身のサウスポーで、通算176勝(NPB37位)、通算2041奪三振(同23位)をマークしたのが、元阪急・オリックス、阪神投手の星野伸之氏(野球評論家)だ。ストレートは120キロ台と速くなかったが、90キロのスローカーブ、110キロ台のフォークボールを駆使した緩急自在の芸術的な投球で知られた。「お前の球で真ん中に投げて抑えられるわけがないだろ!」。振り返れば中学時代にブルペンでど真ん中に投げるたびに怒られていたのが「よかったかもしれない」と話した。
北海道・旭川市出身の星野氏が野球を始めたのは1974年、旭川市立啓明小学校3年の時という。「クラス対抗でチームを作ってね。遊びですけど、それがきっかけ。今みたいに公園でやったら駄目とかなかったしね」。その頃からテレビのプロ野球中継も見るようになったそうだ。「じいちゃんと2人で見ていました。それまでの僕は漫画が見たいと言って、野球を見たいじいちゃんとテレビの取り合いでよくケンカしていたんですけどね」。
話題はいつも巨人だった。「じいちゃんが焼酎を飲みながら、巨人について、いろいろ語るわけですよ。『今のヤツは駄目だ。ユニホームが汚れていない』とかね」。気がつけば星野少年もバリバリの巨人ファンになっていた。王貞治内野手に憧れた。「僕は(1974年の)長嶋(茂雄)さんが引退した年に野球を始めたので、長嶋さんより王さん。早く(通算本塁打の)世界記録が出ないかなぁとか、やきもきしながら見ていました」。
小学6年から軟式野球チーム「啓明ライオンズ」に入った。「王さんと同じファーストをやりたかった」という。だが、投手になった。「監督が全員に投げさせて『星野がやれ』って決めたんです。たぶん、ストライクがよく入ったからだと思う、それから毎日投げて、監督が打って……。監督が『終わり』っていうまで投げるんですよ。監督が気持ちいい打球を打つまで、ホームランが出るまでやめないんです。今考えたら目茶苦茶やったなぁって思いますけどね」。
旭川市の大会に出た。「一応、僕がエース。一応ですよ。準決勝までいったと思う。その試合はボッコボコにされて負けましたけどね。20点くらい取られました。無茶苦茶強いということで有名な小学校が相手だったんです」と振り返った。「僕は(ストライクゾーンの)枠に投げるのがうまかっただけ。その時もたぶん、スピードは遅かったんでしょうね。監督が気持ちよく打っていたくらいですから」。
小学校の時から「ずーっと遅い野球人生だった」
旭川市立東光中では軟式野球部に入部。「今度こそ王さんと同じファーストをやろうと思っていたんですけど、小学校の時、ピッチャーやっていたヤツ、ちょっと集合とか言われて、そのままピッチャーの練習をするようになった。1年の時は球拾いばかりでしたけど、2年生くらいからは、しっかりブルペンに入ってね」。その時のことは忘れられないという。「部長さんがけっこう厳しい人だったんですよ」。
星野氏は笑いながらこう明かす。「僕がど真ん中に投げると部長さんに後ろからバコーンって叩かれて怖いんですよ。すぐ後ろで見ていて、いつ手が飛んでくるかわからないですから。『お前の球で、真ん中で抑えられるわけがないだろ』って言われました。その頃も僕の球が遅かったってことでしょうね。隣で同じ左の先輩が投げていたんですが、僕より球が速いから何も言われていなかったですしね」。
叩かれたくないから、コースをつくしかない。「キャッチャーに低めのギリギリのところに構えてもらったりして練習しましたよ。でも振り返れば、それがよかったのかもしれません。狙うとかいうのはね。野球が好きだったし、やめたいとも思わなかったですしね」。磨かれたコントロール。「僕が中学3年の時は2回戦負け。成績は全然駄目でしたけどね」というが、結果的には、この時期の練習が投手としての基礎にもなったわけだ。
「まぁ、それくらい(球が)遅かったんでね。そう思うと僕は小学校の時からずーっと遅い野球人生だったんだなってことですよね」。星野氏はそう言ってまた笑みを浮かべた。さらに自分のことながら「中学3年の時も一応エースでしたけど、それにしてもなんでそうだったんでしょうね、普通、誰か出てくるでしょう。1個下のヤツとか。それも不思議なんだよなぁ」とも口にした。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)