8.5差もまさかのV逸…優勝は「もう一生できないんじゃ」 “畏怖”した中日からの刺客
星野伸之氏は“オリ元年”の1989年に最高勝率…チームは1厘差で2位
元阪急・オリックス左腕の星野伸之氏(野球評論家)はプロ6年目の1989年、15勝6敗で最高勝率のタイトルを獲得した。親会社が阪急からオリックスに変わった1年目のシーズン。優勝は惜しくも逃したが、オリックス投手陣の柱として大活躍だった。大きな自信となったのはロッテのエース・村田兆治投手との投げ合いに勝ったこと。試合後の村田氏のコメントも印象深いという。「かっこいいなと思った。スゲーなって思った」と振り返った。
“オリックス元年”の1989年、星野氏の活躍は光った。9月は4勝0敗、防御率1.59の成績で月間MVP。15勝6敗の勝率.714で最高勝率に輝いた。もっとも、チームは2位。「あの年は、最初ダントツで走っていたんですけど、最後近鉄、西武と三つ巴になってひっくり返されて……。9月は目茶苦茶、緊張して投げていたのも覚えていますね。でも優勝できなくて、もう一生できないんじゃないかって思いましたよ」。
この年のオリックスは開幕8連勝を飾るなど、4月を13勝4敗のロケットスタート。6月終了時には2位・近鉄に8.5ゲーム差をつける独走ムードだった。しかし、7、8月の夏場に黒星が先行して近鉄、西武との3球団での優勝争いに。9月は星野氏の好投で持ち直したオリックスだったが、最終的にはゲーム差なしの1厘差で近鉄に及ばなかった。「近鉄の(ラルフ・)ブライアント(外野手)がすごかったですよねぇ。西武戦での4連発、あそこで打つかって感じのね」。
西武球場での10月12日の西武対近鉄のダブルヘッダー第1試合途中から第2試合途中まで4打数連続本塁打をマークした近鉄・ブライアントは前年(1988年)に中日から移籍。星野氏は「(中日2軍で)無茶苦茶三振していると聞いていたし、(近鉄で)最初の頃、僕もまぁまぁ三振を取ったんです。カーブを投げとけば大丈夫みたいな。たまに泳いでポテンヒットがあるくらいでね。それが……。やっぱり(当時近鉄ヘッドの)中西さん(の指導)かなぁって思うんですけどね」。
印象深い村田兆治…開幕戦順延でブルペンで隣同士で投げたことも
そんな悔しいシーズンだったが、またひとつ自信をつけたシーズンでもあった。ポイントになったのが8勝目を挙げた8月6日のロッテ戦(西宮)での1-0の無四球完封勝利。村田兆治投手との投げ合いを制してのものだった。星野氏にとっては7月6日の西武戦(西武)以来、1か月ぶりの勝利で、自身の連敗を3で止めた試合。「1-0で村田さんに勝ったのはうれしかったですね」という思い出の白星だ。
「村田さんの失点は(6回裏の)門田(博光)さんのホームランだったんですけど(試合後の)『あそこで逃げるわけにはいかなかったんだよ』っていう村田さんのコメントがかっこよすぎて……。僕の1-0よりもそっちが新聞にも載っていたし、村田さんと門田さんの1対1の勝負は何かちょっとレベルの違うところを感じましたね。試合には僕が勝ったんだけど、かっこいいな、何かスゲーなって思いました。僕ももうちょっと球が速ければなぁとも思いましたけど」
星野氏は翌1990年に初の開幕投手を務めたが、その時に投げ合ったのは当時40歳のロッテ・村田だった。結果は1-4でオリックスの負け。星野氏は6安打、7奪三振で完投したが、3回にロッテ・高橋慶彦内野手に適時打、6回に佐藤健一内野手に2ラン、9回には愛甲猛内野手にソロアーチを浴びて計4失点。村田は2安打11奪三振で、1失点完投勝利だった。この時のことも星野氏はよく覚えている。
「あの試合は1回雨で流れたんですよ。今はたぶんありえないでしょうけど、中止になった日に西宮球場の寮の下のところにあったブルペンで村田さんと隣同士で投げたんです。次の日に2人ともスライドだったんでね。その時に村田さんから『どっちが球数少なく終わるか勝負しようか』って言われたんですよ。いやいやもう最初から完投ありきの話じゃないですか。今思えば、その時点で負けていましたね。村田さんは余裕でしたから」
通算215勝、ダイナミックで個性的な“マサカリ投法”で知られたロッテの大エース・村田との投げ合いも、星野氏にとっては大きな財産になった。投球スタイルは全く異なるが、超一流の技術、考え方などに少しでも触れたことで刺激も受けた。その後の自身の成長にもつながったのは言うまでもない。敵チームながら忘れられない大先輩だ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)