中日20歳が浴びた“報復”「ほらな」 容赦ない一発…「若造」が感じたプロの怖さ
宇野勝氏は高卒2年目の終盤に3本塁打…背番号が「43」から「7」になった
元中日の強打の遊撃手・宇野勝氏(野球評論家)の背番号はプロ3年目の1979年シーズン、「43」から「7」になった。「2年目の終盤に打った3本のホームランが首脳陣に印象づけたんじゃないかな」と“分析”したが、そんな若武者にプロの猛者たちは容赦なかった。「3年目のオープン戦だったかな、ホームランを打った次の打席で死球を受けた」。あからさまな1球。「初めてプロの怖さを知った」という。
銚子商からドラフト3位で中日入りした宇野氏は、1977年のプロ1年目の夏に1軍昇格した。2試合に出場し、いずれも遊撃守備に就いただけの打席なしで2軍にUターンとなったが、この経験を1978年の2年目につなげた。2軍スタートだったが、4月下旬には1軍に呼ばれた。「少し慣れたって部分もあったんだけど、ファームで開幕してから3試合か4試合か連続ホームランを打って、1軍に上がったんだよ」。
1年目よりも打力は明らかに向上していた。「ファームでは周りが打っているよりも俺の方が飛んでいるよなっていうのが少しあったかな」。1軍でも守備だけでなく、代打でも起用された。シーズン10試合目の出場だった6月1日のヤクルト戦(草薙)では「7番・遊撃」で初めてスタメン出場し、4回裏にヤクルト・松岡弘投手から初安打。それがタイムリーとなって初打点も記録した。「松岡さんから、センター前だったかな」。
その後、7月上旬に2軍落ちしたが、9月下旬に再昇格。9月26日の阪神戦(ナゴヤ球場)では「7番・二塁」で先発し、4回裏に谷村智啓投手からプロ初本塁打を放った。10月6日のヤクルト戦(神宮)では「1番・二塁」で起用され、倉田誠投手からの2号アーチを含むプロ初の3安打。10月10日の広島戦(ナゴヤ球場)では「6番・遊撃」で北別府学投手から3号と、短期間で3発と成長ぶりを見せつけた。
実際、この3発によって期待は高まった。「オフに千葉に帰っている時に球団から電話があって「『来年から背番号を7番にするから』って言われた。(それまで7番をつけていた捕手の)新宅(洋志)さんがちょうど辞められた時だったと思う。『ああ、そうですか』と答えたけど、1桁の番号は当時レギュラークラスってイメージだったから、そりゃあうれしかったよね。俺もレギュラーでいけるかもって思ったかな」。
3年目のOP戦…本塁打の次の打席で死球「若造が打ったら来るぞってこと」
2年目は26試合に出場し、48打数10安打の打率.208、3本塁打、7打点の成績だったが「あの3本のホームランが(中利夫監督ら)首脳陣に印象づけたとは思う」と振り返った。そして、野球評論家の立場として、プロ野球の発展を願うOBの1人として、自身を飛躍させたこの3発を例に、こう付け加えた。
「俺、今、解説とかで(逆方向へ)流すことはあまり好きじゃないって話をよくするんだよ。で、この3本はライト(1号)、右中間(2号)、バックスクリーン(3号)。それは右方向に打てとか言われたわけでも何でもない。自然と飛んだんだということを、今の選手に言いたい。今は敢えて右打ちとか言うじゃない。そうじゃなくて普通に打てば行くんだよということをぜひわかってほしいなって、これが今一番思うね」
“背番号7元年”のプロ3年目(1979年)に宇野氏はさらに成績を伸ばすが、プロの怖さも思い知ったという。「オープン戦だったかな、ホームランを打った次の打席の初球にデッドボール。あれはびっくりしたというか、ベンチに帰ったらみんなに『ほらな』みたいに言われたんだよ。相手はベテランのピッチャー。ようするに若造が打ったら来るぞってこと。そういうのもプロではあるんだってことがわかったね」。
そんな経験も経て、3年目のシーズンは122試合で359打数95安打の打率.265、12本塁打、37打点。打順は主に8番だったが、若き大型遊撃手として、レギュラーポジションもつかんだ。高校時代から定評があった守備だけでなく、打撃でも相手投手から厳しい攻めを受けながらも結果を出していった。それを踏まえれば、早々と食らった“危険球”もプロとして戦っていく上でいい経験になったのかもしれない。「でも、びっくりしたけどね」と宇野氏は笑った。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)