衝撃の打率.722も…コールド勝ち以外は「監督から怒られた」 元広島名手の原点となった“夏”
高2秋に福井大会最多記録の28塁打をマーク、県大会優勝けん引
高打率で甲子園に乗り込んだ。元広島外野手の天谷宗一郎氏(野球評論家)は福井商時代「北陸のイチロー」と呼ばれていた。2000年、高2秋には福井大会最多記録の28塁打をマークするなど、安打製造機ぶりを発揮したが、この裏にはライバルの存在が見逃せない。北信越大会ではのちに阪神入りする左腕、甲子園ではオリックスなどで活躍した1歳年下の内野手、チームメートとも切磋琢磨した。
2000年に夏の甲子園を天谷氏は2年生で経験した。初戦で浜松商に1-2で敗れ、自身は超緊張状態で「試合のことをほとんど覚えていない」というが、これを機にまたステップアップ。最上級の立場となる2年秋はバットで好成績をたたき出し、福井大会優勝、北信越大会準優勝で選抜切符をつかんだ。「あの頃はみんながちゃんとやれば勝てるって感じでしたね。しかも誰一人、天狗になるようなこともなかったんです」。
絶好調の天谷氏はその秋に福井大会記録の28塁打をマーク。これはいまだに破られていない。「その時の福井大会の打率は.722。北信越大会を入れたら.645でした。でも東京や大阪などとは違いますからね」。各地でレベルの違いはあれど、そこまでの数字は簡単に残せるものでもないだろう。実際、選抜でも活躍した。11-9で勝った桜美林(東京)との1回戦では3番右翼で出場して3安打2盗塁。4回にはバックスクリーン左に本塁打も放った。
「ホームランは真ん中低めのストレート。浜風もあったと思いますけど、いい感じでは打てましたね」。2回戦は浪速(大阪)に6-7で敗れたが、全国で通用する打撃力も見せつけて、プロからも注目され始めた。「北陸のイチロー」と呼ばれたのも、そういう実績があったからこそだが、何よりライバルたちの存在が刺激になったという。
「出会えて良かった」元阪神左腕、元オリックス内野手らが刺激に
2年秋の北信越大会で対戦した高岡第一(富山)には左腕・高橋聡文投手(元中日、阪神)がいたし、決勝で敗れた金沢(石川)には左腕・中林佑輔投手(元阪神)がいた。「中林は球が速かったし、早い段階で同じ地区でそういったピッチャーに出会えたというところも僕にとっては良かったと思う。僕は勝手にライバルと思っていました」。選抜2回戦の相手・浪速の1学年下、大引啓次内野手(元オリックス、日本ハム、ヤクルト)のうまさにも目を奪われたそうだ。
社会人野球・JR東海に進んだ福井商の1番打者・杉田匡平遊撃手もそう。「彼は小学校の頃からライバルチームにいた超センスマン。今でいうならカープの小園(海斗内野手)みたいな感じ。うまいし、飛ばすし、走るのも速いし。男前で歌もうまい。福井商では最初バンドをやるとか言って野球部にいなかったんですけど、監督に口説かれて1年の終わり頃に入ったらあっという間にレギュラー。杉田が1番で僕が3番。彼の存在も僕にとっては大きかったですね」。
2001年の3年夏も福井大会を制して甲子園に2年夏から3季連続出場を果たした。敦賀工に17-2、美方に11-1、準決勝は北陸に7-0、決勝は敦賀気比に11-3。いずれも猛打爆発の圧勝だった。「コールドで勝たなかったら逆に監督から怒られていました。監督は『お前たちは打つチームなんだ』と伝えたかったんだと思います」。しかし、夏の甲子園は1回戦で前橋工(群馬)に惜しくも6-7で敗れた。
「1番打者の杉田が甲子園練習で有鉤骨を折ったんですよ。それでも彼はバットが振れない状態ながら9番打者で出たんです。代わりの1番は僕。監督に1番をやらせてくださいと言ってね。その方がいいかと思って……。勝てなかったですけどね。負けた時は泣きました。でもやり切った感じも満々でした。もちろん勝っていきたかったですけど、もう別に後悔はないというか、しょうがないよね、みたいな……」。仲間にも敵にも恵まれた高校3年間だった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)