2軍でタイトルも「何の価値もない」 靭帯断裂→脱臼…続いた負の連鎖「ブチブチって音が」
天谷宗一郎氏は3年目オフに左足靱帯を断裂…4年目は右肩を脱臼
元広島外野手の天谷宗一郎氏(野球評論家)にとって最大の敵は「怪我」だったといってもいい。調子が上がって来た時に限って、何かが起きるパターンも多かった。実質最初の怪我は1軍初昇格を果たした3年目、2004年オフの左足靱帯断裂。「秋に無茶苦茶、バッティングの状態がよかったので、継続できるようにオフも練習していたら、やってしまって……」。出遅れた4年目(2005年)は2軍戦で右肩を脱臼した。試練が次々に襲ってきた。
天谷氏は3年目の2004年に2度、1軍に昇格した。1度目は8月下旬で4試合の出場で2打数無安打に終わったが、10月上旬の2度目は6試合に出場して初スタメンもあり、初安打も初打点も初盗塁も記録して9打数2安打だった。計11打数2安打の打率.182だったが、すべていい経験だった。その年、2軍では42盗塁をマークし、2年連続ウエスタン・リーグ盗塁王。「それは2軍ですから」というが、周囲の期待は高まるばかりだった。
わずかな期間でも1軍体験が大きなプラスになった。「3年目の秋は無茶苦茶、バッティングの状態もよかったんですよ。で、その感覚のよさを継続したい、状態をゼロにしたくないということで、オフになって、張りがあったなかでも練習を続けたんです」。それが思わぬ結果を招いた。「ジャンプをした時にブチブチって音がしたんです。歩けないし、病院に行ったら(靱帯が)2本切れている、と言われました」。
良かれと思ってやったことが悪い方に進んでしまった。「球団からも怒られた記憶があります」。まさに暗転だった。好調キープどころか、大マイナス状態に陥り、4年目、2005年の春季キャンプまでに万全な状態にもできず、大きく出遅れた。それでも開幕3カード目には1軍に呼ばれたが、4月8日のヤクルト戦(広島)に代走で出て1盗塁、翌9日は代打から中堅の守備に就いて2打数無安打で2軍へUターンとなった。
「早めにイメージで呼んでくれたんでしょうけど、全然駄目だったのは覚えています」。悪夢は続く。2軍再調整中にもアクシデントに見舞われた。6月の2軍戦で盗塁を試みた際に右肩を脱臼した。「挟まれて、何とかセーフになろうと思って(相手野手と)ドーンと交錯してしまったんです。で、カポーンって。そこからですね。ちょっと肩がおかしくなったのは。けっこう癖になって、その後、右肩は4回くらい抜けましたからね」。
6年目から背番号を「49」に変更…出直しを図った
この怪我が想像以上に長引き、4年目の1軍出場は4月の2試合だけの2打数無安打1盗塁に終わった。「亜脱臼だったんで何とかなると思ったし、戦線を離脱したくないという思いもあったんで、手術せずに保存治療を選択したんですけど、時間がかかりましたねぇ」と天谷氏は悔しそうに話す。何かをつかみかけていたかもしれなかったのが、すべてパーになって、さらに一から出直しという形になった。
山本浩二監督が退任し、マーティ・ブラウン監督体制になった2005年11月の宮崎日南秋季キャンプには参加して復調を目指したが、なかなか状態が上がらなかったという。5年目の2006年は5月5日に1軍登録されたが、6月12日に2軍落ちして終了。2軍では24盗塁で通算3度目の盗塁王になったが、1軍では17試合で8打数無安打だった。
「あの年は5月に上がった時も2軍のオリックス戦で3三振した日に1軍って言われたと思う。足と守備で、ということだったのでしょうけど、他の先輩の方が、状態がよかったなかで、僕が1軍で申し訳なさがありました。マジで底の状態で呼ばれたって感じでしたからね。結果も(8打数無安打で)散々でしたし……」。2軍で盗塁王になったことも「何の価値もないですよ」とむなしそうに振り返った。
2007年の6年目シーズンから背番号が69から49に変更となった。「怪我が多いから球団から変えろって言われたんです。肩が抜けたりを繰り返したりしていたんでね。候補の番号はいくつかあったんですけど、その中で49を選びました。とにかくピッチャーの番号が欲しいと思った。野手のイメージがあまりない番号がいいんじゃないかと思ったんです。49を前につけていたのは(ジョン・)ベイル(投手)だったんでね」と心機一転だった。
「本当は13番とか16番をつけたかったんですけどね。(2009年ドラフト2位の)堂林(翔太)が13番をつけた時はかっこいいなって思ったし、(巨人時代に13番だったロベルト・)ペタジーニもかっこよかった」と笑う。実際、この背番号変更で少し流れが変わった。「49」でも怪我にはつきまとわれたものの、再びいい方向にも進みはじめたのも「49」になってからだった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)