“諦めの日本代表”に指揮官ブチギレ スター揃いの米国に恐々「勝つのは無理やで」
元阪急・熊野輝光氏、五輪2戦目は1本塁打を含む5打数4安打3打点
1984年のロサンゼルス五輪で野球日本代表は金メダルを獲得した。元阪急・オリックス、巨人外野手の熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)は当時の主将。チームを引っ張るとともに全試合に「3番・中堅」で出場して攻守に渡って貢献した。決勝は開催国の米国を6-3で撃破して栄冠をつかんだが、この裏には日本代表・松永怜一監督の猛ゲキがあった。「試合前に『金メダル以外はいらない!』って」。それで代表ナインはピリリと引き締まったという。
ロス五輪野球日本代表は日本楽器の熊野氏、本田技研の伊東昭光投手(元ヤクルト投手、現ヤクルト編成部長)ら社会人組と明大・広沢克己内野手(元ヤクルト、巨人、阪神)、日大・和田豊内野手(元阪神)ら大学生組との混合で編成された。試合はドジャースタジアムで行われ、日本はまず韓国、ニカラグア、カナダとの予選リーグに臨んだ。初戦の韓国戦は2-0。プリンスホテル・吉田幸夫投手、川崎製鉄水島・宮本和知投手(元巨人)、伊東の完封リレーでの勝利だった。
2戦目のニカラグア戦は19-1で大勝した。熊野氏も1本塁打を含む5打数4安打3打点と活躍。「確か、ランニングホームランだったと思いますけどね」と懐かしそうに振り返った。3戦目のカナダ戦も熊野氏は4打数2安打1打点と気を吐いた。試合は4-6で敗れたものの、日本は2勝1敗で予選リーグを突破。準決勝は大会注目投手の郭泰源を擁するチャイニーズ・タイペイに延長10回2-1でサヨナラ勝ちした。
郭泰源は初回に打球が右すねに当たるアクシデントにも見舞われ、4回2/3、1失点で降板。日本は先発・吉田幸が10回途中まで1失点と好投したのが光った。熊野氏も5打数2安打。守備でも「その時だったと思う。センター前に来てサードを狙った一塁ランナーをタッチアウトにしました」。緊迫ゲームでのセンターからの好返球はビッグプレーだった。「最後はチュウ(日本石油・荒井幸雄外野手、元ヤクルト、近鉄、横浜)がサヨナラ打でしたね」。
そして迎えた8月7日の決勝・米国戦だった。ロス五輪の公開競技として開催された野球だが、決勝進出を果たし、2位以上でメダル獲得も確定しており、日本代表ナインにはすっかり安堵感が漂っていたという。「相手のアメリカ(代表)は(MLBの)ドラフト1位ばっかりでしたからね。そりゃあ、俺らが勝つのは無理やでぇ、郭泰源に勝っただけでも、俺らすごいでぇ、みたいな感じになっていました」。
マグワイアら豪華メンバー相手…監督のゲキで「みんなに喝が入った」
米国チームは、のちに1998年、カージナルスでシーズン70本塁打を放ったマーク・マグワイア内野手(1984年、アスレチックスからドラフト1巡目指名)ら強力メンバー。勝てるわけがないと思うほど、とてつもない相手に見えていたようだ。「そういうこともあって、ちょっと僕らはリラックスしすぎていたんでしょうね」と熊野氏は言う。その空気を日本代表の松永監督は許さなかった。
「試合前に松永さんが怒ったんですよ。『お前ら何を言っているんだ! 金メダルじゃないと帰らんぞ! そんなことで勝てるか!』『金メダル以外はいらない! 俺らは勝ちに来たんだ!』ってめっちゃ、カミナリを落とされました。あの執念はすごかったですよ」。この指揮官のゲキで日本代表の雰囲気は一変したという。「それでみんなに喝が入りましたね」。気合を入れ直して、試合本番に臨んだわけだ。
3回裏、米国に1点先制されたものの4回に広沢の中前適時打で逆転。5回にも1点追加して、8回には広沢が今度は3ランを放った。先発・伊東も7回途中2安打1失点と好投し、宮本、吉田幸につないで6-3で勝利した。「広沢は毎日のように特打ちしていました。最後、あの3ランで(勝利を)確実なものにしてくれましたよね」と話す熊野氏も決勝は3打数1安打。公開競技ながら初めて五輪で開催された野球で日本が初代チャンピオンになったのだ。
「野球界にとっても、すごいことだったし、そういう時にキャプテンをやれてよかったと思います」と熊野氏は感慨深げに話す。「帰りにどっかハワイにでも寄ってくれるのかなぁって思ったら何もなし。『観光もなしですか』と聞いたら『ない』って言われて、次の日に日本に帰りましたけどね」と笑うが、帰国してからは大フィーバーだった。「高輪プリンスで祝賀会もやってくれました」。熊野氏の野球人生も変わった。またプロへの道が開けてきた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)