エリート街道→引退で痛感「全く通用しない」 PCは初心者…通じなかった根性論
初の甲子園出場を掴んだ千葉黎明…指揮官は元営業職
創部102年目で春夏通じて初の甲子園出場を掴んだ千葉黎明は、中野大地監督が指揮を執る。社会人野球のJFE東日本でプレーし、引退後は社業に専念していた。自身の社会人時代の経験から「社会に通用する人間づくり」に力を入れており「甲子園出場」を目標に掲げたことはないと話す。
中野監督は千葉・拓大紅陵から明大に進学。卒業後は社会人の日産自動車とエリートコースを歩んだ。その後は日産野球部の休部に伴いJFE東日本に移籍。31歳で現役を引退した後は、営業職に就いていた。最初は何の仕事をするのかもわからなかったが、すぐに肩書きが「副課長」になった。
同年代の社員は働き盛り。追いつかなければいけないし、会社からの期待も感じた。パソコンもほとんど触ったことがなく、エクセルもワードも使えない。そんな中、後輩と一緒に外回りをしながら、必死に仕事を覚えた。拓大紅陵では甲子園に2度出場するなど、野球のエリート街道を歩んできたが、会社員として働くようになってからは、戸惑いの連続だった。
「いくら『あなたとこういう仕事がしたいんです』と熱意を伝えても、作った資料が良くなければ相手は納得してくれない。ビジネスの世界はドライだと感じました。相手のことをよく観察できたり、相手の心を読めたり、野球をやっていてためになったことはもちろんあります。でも、今までの気合と根性だけでは全く通用しない。『野球ってちっぽけだな』と思いました」
野球を引退し社業に就いても、気持ちを切り替えることができずに会社を辞めていく人をたくさん見てきた。だが、引退後も会社で働けることはありがたいこと。感謝の気持ちを持ち、がむしゃらに働いていると、周りの人たちも助けてくれた。次第に仕事量が増え、新入社員の指導も任されるようになったころ、両親が千葉黎明の教員を務めていた縁もあり、野球部コーチ就任の話が舞い込んだ。「野球をいくら頑張っても、それだけでは社会で通用しない。自分の経験を、高校生に伝えたい」。そう思い、快諾した。
技術よりも「身だしなみ、挨拶、言葉遣い」
「生徒たちが社会に出たときに、戸惑うことのないようにしたいと思っています。大学では、私生活の面を指導される機会はあまりない。高校は、社会に出る前の最後の準備期間だと思っています。技術的なこともたくさん指導しましたけど、それ以上に身だしなみや挨拶、言葉遣い、そういうところを大切にしています。甲子園を目標としていなかったから、そこに力を入れられたと思います。『甲子園に行くためには』とか、言ったことは一度もないです。今回のセンバツ出場は、本当に結果的についてきたという感じです」
選手それぞれの意識が変わったことで集中力が高まり、チームの組織力も強くなった。昨秋の県大会では6試合で1失策と、中野監督が目標に掲げる「負けない野球」で初優勝。続く関東大会でもセンバツ覇者の山梨学院を破る快進撃でベスト4となり、甲子園をたぐり寄せた。
「低い目標と言われるかもしれませんが、選手、選手の家族、卒業生、チームを応援して下さる方たちみんなで、甲子園で校歌を歌いたいと思っています」
監督として、甲子園に行きたいという選手の希望に添える指導することが使命だと感じていたが、同じくらい大事にしていたのが「社会に出ても困ることのないように」という思い。中野監督は、その気持ちに応えてきた選手たちとともに、創部100年を超える野球部の新たな歴史を刻む。
(篠崎有理枝 / Yurie Shinozaki)